「陰極まれば陽に転ず」という言葉が『易経』にあるそうです。
去年起こった驚くほど多方面にわたる深刻な問題を見ていると、日本という国は、今まさに「陰極まれば」という状態に陥りつつあると感じます。
しかし、日本本来の理想・理念であった「和の国・日本」という原点に還れば、「陽に転ず」ることは可能だ、と私は確信しています(「還れば」という条件づきですが)。
ところで、先の言葉の出典を明らかにしようと思って、『易経』(上下、朝日新聞社、中国古典選、余談ですが絶版なのがとても惜しまれます)の頁を繰っていて、出典は見つかりませんでしたが、今みんなで読みたいと思う言葉に会いました。
「師曰く、危うきものは、その位に安ずる者なり。亡ぶるものは、その存を保つ者なり。乱るるものは、その治を有(たも)つ者なり。是の故に君子は安くして危うきを忘れず。存して亡を忘れず。治にいて乱を忘れず。是を以て身安くして国家保つべきなり。易に曰く、其れ亡びん亡びんといいて、包桑に繋ぐ、と。」
以下、超意訳をしてみます。
孔子が言われた、危険なのは既得権に安住しようとする者である。亡びるのはこれまでどおりでいこうとする者である。混乱を招くのは過去の安定性がそのまま続けられると思っている者である。だから、本当のリーダーはまだ大丈夫に見えていても近未来に迫った危機を自覚している。今は続いていてもやがて滅亡することがあることを忘れない。いちおう安定しても、混乱の可能性を忘れない。こういう姿勢があってこそ自分自身も安らかであれるし、(なによりも)国家が持続可能になるのである。易経に、「(こんなことでは)亡びるぞ、亡びるぞ、と自戒することによって、(国を)しっかりとした根っこに繋ぎとめよ」とあるとおりだ。
言うまでもなく、人間の経済も含めた「生活」の根っこは自然にあります。
不況のさなか、経済人、政治家、メディア、市民あげて、景気回復、雇用の回復、福祉の維持……などが優先課題であって、環境はその後だという空気になっているようですが、「そうではない、それらと環境の維持・回復は全体として1つの緊急課題なのだ」と私(たち)は考えています。
今年も、多くの方とそういう理解を共有できるようになるまで、角度や言葉を変えながらも基本的には同じことを言い続けるほかない、と覚悟しています。
(11日はH大学社会学部の最終授業で、「十七条憲法」についてのまとめと感想の小レポートを書いてもらいます。学生たちはどう受け止めてくれるでしょう。楽しみにしているところです。)
だが、日本語には時制はなく、未来時制もない。
日本人には意思がなく、未来 (非現実) の姿を脳裏に描くことが難しい。
意思のあるところに方法がある。(Where there’s a will, there’s a way).
意思がないので、問題が生じても無為無策でいる。
理性がないが、感性がある。
問題を解決する能力はないが、事態を台無しにする力を持っている。
「民の感情を無視した、、、、」と言いつつ、あたかも自分の反対にはリーズン (理性・理由・適当) があるかのごとく思い込んでいる。
感情は現実の内容であり、理想は非現実の内容である。二者は、同次元の内容として語ることはできない。
だが、その区別にも気づいていない。
「感情を抑えて、理性的になれ」と諭す指導者がこの国にはいない。
始めから終りまで国民は理性・理由を等閑視しているから、問題を解決する能力は得られない。
かくして、我々は自ら望むことなく危機に陥る民である。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
コメント有難うございました。ご指摘はそのとおりだと思います。
しかし、次世代のことを考えると、「望むことなく危機に陥る」のを放置するわけにはいきません。
志ある人間が一緒になって理性的に、まだ現実になってはいないが、なるべき未来を描いて、国民全体を誘導して、それを現実化したいものです。