ブッダは、世界の構成要素を5つに分類して「五蘊(ごうん)」と呼びました。
まず「色(しき)」ですが、これは色や形があって目に見える「物」あるいは「物質的現象」のことで、色気や性欲のことではありません。
「受(じゅ)」は、色=物を感受・知覚する作用、
「想(そう)」は、想念・イメージ作用、
「行(ぎょう)」は、意思や行動決定の作用で、「諸行無常」の「行」とは意味が違います。
「識(しき)」は、思考・意識作用です。
現代的にまとめると、「色」が「物」、後の4つは「心」に当たりますが、仏教では心への洞察がくわしくなっているわけです。
さらに、部派・アビダルマ仏教では、人間を考えるのに、「十二処(じゅうにしょ)」という分類をしました。
まず、現代風にいうと感覚器官のことを「根(こん)」といい、眼(げん)・耳(に)鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん、身体)、意(い、意識)の器官をそれぞれ「眼根」「耳根」…といいます。
それから、物の色や形、音、香り、味、身体感覚、外的な存在という「根」が感じる対象を「境(きょう)」といって、それぞれ「眼境」「耳境」…といいます。
「処(しょ)」というのは、現代の言葉でいえば「認識が起こる場」という意味で、根と境それぞれ六つずつあり、あわせて「十二処」になります。
この根=器官と境=対象が、お互いに入り込みあうことによって、心の具体的な働きが起こるので、「十二入(じゅうににゅう)」ということもあります。
その心の具体的な働き・識別作用を「識(しき)」といって、「眼識」「耳識」……「意識」といいます。
例えば、眼という器官・「眼根」と眼の対象・「眼境」が出会い、入り込みあって、眼で何かが見えるという「眼識」が起こる、というわけです。
「識」も六つありますから、「十二処」と足して「十八界(じゅうはっかい)」といいます。
「界(かい)」とは「構成要素」「領域」というふうな意味で、『般若心経』では、「眼識」ではなく「眼界」となっていますが、おなじことです。
部派仏教では、こういうふうに、「六根+六境+六識(六界)=十八界」で、人間の身体的な感覚器官と、それが感じとる対象と、そこで起こる心の働き・識別作用の全体を、整理・分類しています。
そして、それらの一つ一つが、無常、無我、苦……であることを*、実にていねいに洞察・観察していくという思索的な瞑想(正思惟+正定)を行なったりするのです。
そして、人間もそれ以外の物もすべて実体ではない・無我であること*――「人無我(にんむが)」と「法無我(ほうむが)」といいます――を心からわかる・覚ることを目指すのです。
アビダルマ仏教では分類・整理がもっともっとくわしくなっているのですが、くわしくやりすぎるとかえってわからなくなるので、本授業ではこのくらいにしておきます。
しかしともかく、こうして見てくると、ゴータマ・ブッダから部派仏教に到る仏教は、非常に理性的・哲学的であり、さらにそれにとどまらず「覚り」という霊性を目指すものであったことがはっきりおわかりいただけるのではないでしょうか。
そういう意味で本来の仏教は、古臭い迷信(呪術的・神話的宗教)ではなく、哲学的・霊性的宗教だったのです(「仏教の6つの側面」参照)。
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そこには、はっきりと「覚り」という霊性へのベクトルがある。
この点について言えば、とてもシンプルで、純粋ですね。
大乗仏教の理想と、部位仏教の純一に霊性へと向かう姿勢との融合、ここに現代に生きた仏教にするためのヒントがあるように思いました。
有り難うございました。
まさに秋月先生の本のタイトルにもある通り、『誤解だらけの仏教』!!ですね。
いつも分かりやすく啓蒙していただき、有り難うございます。
本当にシンプルでわかりやすいです。ありがとうございます。
新年早々の出席、ご苦労さま。
今年も、ポイントをつかんでシンプルに、しかし正確に、かつ深く、学んでいきましょう。
なるべくなだらかな道を選ぶようにしていますが、しかし上り坂はまだまだ続きます。