苦しみといういいこと:唯識のことば27

2017年02月26日 | 仏教・宗教

 堅実でないものを堅実であると考え
 転倒した妄想にとどまり
 煩悩に汚染される者
 彼らこそ勝れた覚りを得る                

                 (摂大乗論第二章より)


 大乗仏教の言葉の中には、表面的な意味と深い意味がまるで違うものがあります。

 そういう表現方法を「逆説」といいます。

 右の言葉も、そうした逆説的な表現で、軽く読むと「え?」と思うようなことが書かれています。

 頼りにならないものを頼りにし、分別知から出た常識・浅知恵にこだわり続け、そのせいで悩みに悩んで心がドロドロになってしまうような人間、そういう人間こそすばらしい覚りに到ることができる、というのです。

 これは、すべては空であり実体ではなく、だから頼りにしてはならないと考え、常識は妄想だとして捨て去り、さっぱり爽やかに生きる人間が、「勝れた覚りを得る」のではない、ということになります。

 この言葉は、私たちの仏教に対する常識的な考え方とはかなり違っていて、非常に逆説的で、こういう表現に出会うと、私たちは単純に読み過ごすことができず、「これはいったい真意はどこにあるのだろう?」と考え込むことになったりします(もちろん「ふーん」というふうに読み飛ばしてしまうこともしばしばありますが)。

 しっかり考え込むことになったら、この言葉が禅でいう「公案」の役割を果たすことになるでしょう。

 「公案」に対する解答を「見解(けんげ)」といいますが、ご参考までに、私のとりあえずの見解を書いてみたいと思います。

 私は、この言葉からは、二つのことを読み取ります。

 第一は、これは本気で修行に苦闘した人の実感のこもった言葉だということです。

 頭では堅実ではない、空だといくら思っても、やはり頼りにしたくなるものがいろいろあります。

 地位、名誉、財産、健康、知識、容姿……。

 分別知は妄想だと教わり、納得しても、だからといってすぐにやめられるものではありません。

 意識だけでなく、アーラヤ識の底まで汚染されているからです。

 私たちの日常は、マナ識-アーラヤ識の働きで欲望(神経症的欲求)と悩みに汚れっぱなしです。

 しかしその悩み・葛藤がもう耐えられないほどだという気持ちになるからこそ、本気でそこから抜け出したい、だから修行するという気になるものです。

 ゴータマ・ブッダから始まって、深い悩みなしに修行する気になり、覚った人は、ほとんどいないようです。

 だとすると、今悩んでいて、修行を始めたみなさん、おめでとうございます。

 スタートを切ったら、途中で棄権しないかぎり、いつかはゴールに着くことが決まっています。

 第二は、それとも関わって、筆者がずっと言ってきたことですが、唯識、広く言えば大乗仏教は「絶対肯定の思想」であるということです。

 人生におけるあらゆること、悩みや苦しみさえもオーケーだ、人生には悩みはあるもので、それは究極的にはいいことだ、ということです。

 苦しみといういいこと・必要なことがあるからこそ、私たちはもっといいこと、つまり覚りへと向上しようとする、せざるをえなくなるのです。

 コスモスは、グッドからベターへ進化し続けていて、私たちはそのプロセスの一部なのです。


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