死とは誕生と同様に自然の神秘である。
同じ元素の結合、その元素への〔分解〕であって、恥ずべきものでは全然ない。
なぜならそれは知的動物にふさわぬことではなく、また彼の構成要素の理法にもふさわぬことではないからである。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第4章5)
君は全体の一部として存続して来た。
君は自分を生んだものの中に消え去るであろう。
というよりはむしろ変化によってその創造的理性の中に再び取りもどされるのであろう。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第4章14)
要するに人間に関することはすべていかにかりそめでありつまらぬものであるかを絶えず注目することだ。
昨日は少しばかりの粘液、明日はミイラか灰。
だからこのほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。
あたかもよく熟れたオリーヴの実が、自分を産んだ地を讃めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝をささげながら落ちて行くように。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第4章48後半)
私たちが死者を送る時、しばしば自分を「まだ死んでいない(当分は死なない……あたかもいつまでも死なないかのような)者」と感じていますが、しかしそれだけでなくほんとうには「やがて必ず死ぬ者」です。
死・いのちの有限性を想うことはおそろしいことでもありますが、それゆえにこそいのちの大切さを感じることにもなります。
さらに深く観想をするならば、死は元に帰ること、コスモスへの帰還であると考えることができるようになります。
(曹洞宗などでは最近なくなった方のことを「新帰元」と表現するようです)。
そして、そのコスモスこそ大いなる真実の自己なのです。
コスモスへ帰ることを熟したオリーヴの実が落ちることに譬えた自省録の文章は、とても美しいですね。
ただ私はアウレーリウスと違って、幸い大乗仏教やフランクルの実存分析や現代科学のコスモロジーを学ぶことができているので、「人間に関することはすべていかにかりそめでありつまらぬものであるか」とは考えません。
有限の人生において、このコスモスに他のだれでもなく自分にしか生み出せないものを新たに生み出すこと、自分固有の深い感動体験をすること、そして自分にしかできない高貴な生き方・態度を表わすこと、コスモスの自己認識器官としてコスモスを認識し、自己感動器官として感動し、なによりも自己覚醒器官として覚醒してから、このかたちとしての身心から解脱してコスモスとふたたび同一化すること・涅槃が、生と死の意味だと考えているからです。
かりそめでありつつ、きわめてすばらしい開花と豊かな結実の後で大地に帰る草木に譬えることができるかもしれません。
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熟したオリーブの実ということば、たとえも美しいし、生き方としてもたしかに感動的です。
古代の哲学者・皇帝の残した自分への言葉が、私たち現代日本人の生き方にもそのままあてはまる(遠いですが…)のもすごいことですね!
さらに、単に「むなしくはかない」だけでなく、確かに短いけどそれはかけがえのないコスモスの開花と結実、と現代科学のコスモロジーや大乗仏教はとらえているとのこと、せっかく生まれたのならそこまで行くのが本当だ、と感じます。
>自分を産んだ地を讃めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝をささげながら落ちて行く
これは何とやすらかで安心感のある「死」のとらえ方でしょう!
コメント有難うございます。
こうした死の捉え方が本心からできるといいですね。
どうせ必ず死ぬのですから、じたばたしないで美しい態度で受け容れたいものです。
そのためにはしっかりとした修行の積み重ねが必要ですから、私もいっそう精進したいと思っています。
このような心境になれたらどんなに素晴らしいかと思いました。
今はまだ、自分ではない人の死にさえすごく動揺してしまうので…。
この言葉を自分に言い聞かせながら、死を見つめたいと思います。
動揺するというのは、別の言葉で言えば感じるということで、それがなければ人間らしくありませんが、感じ過ぎるのはあまりいいことではありませんから、中庸の取れた、無神経・無感動というのとはちがう不動心・平常心という心境になりたいものですね。
学んでいきましょう。