日本における、それだけなく世界における、インド学仏教学的なブッダ研究の代表的な存在が故中村元先生(1912-1999)であったことは言うまでもありません。
したがって、ブッダを論じる上では、中村先生のものは必ず参照すべきでしょう。
きわめて多数ある著書の中でも、一般読書人が気軽に読めるものは『釈尊の生涯』(平凡社ライブラリー)です。
本格的に読むとなったら、何と言っても著作集の中に入っている大著『ゴータマ・ブッダ』(春秋社)です。
ただ、肝腎のブッダは何を覚ったかという点についての中村先生のお考えは、以下の引用のとおりで(一行空きは筆者)、どの本を読んでも、正直もう少しご自分の覚りについての解釈をちゃんと言葉で説明できるところまでは説明してほしいという思いが残ります。
その点、羽矢氏のものと、中村先生に近い世代の仏教学者としては故玉城康四郎先生のものは(これも時間があったら次にご紹介しますが)、ご自分の理解でちゃんと説明しておられて、なるほどと思わされます。
といってももちろん、文献学・歴史学的に正確に理解しようとするのなら、やはり中村先生の業績を踏まえるところから出発する必要があると思います。
…悟りの内容に関して経典自体の伝えているところが非常に相違している。いったいどれがほんとうなのであろうか。経典作者によって誤り伝えられるほどに、ゴータマのえた悟りは、不安定、曖昧模糊たるものであろうか? 仏教の教えは確立していなかったのだろうか?
まさにそのとおりである。釈尊の悟りの内容、仏教の出発点が種々に異なって伝えられているという点に、われわれは重大な問題と特性を見出すのである。
まず第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分の悟りの内容を定式化して説くことをせず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした。だから彼の悟りの内容を推し量る人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。
第二に、特定の教義がないということは、決して無思想ということではない。このように悟りの内容が種々異なって伝えられているにもかかわら、帰するところは同一である。既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。それは実践的存在としての人間の理法(ダルマ)を体得しようとする。前掲の長々しい四禅の説明も結局はここに帰着する。説明が現代人から見ていかに長たらしく冗長なものとして映ずるにしても、成心を離れて人間のすがたをあるがままに見ようとした最初期の仏教の立場は尊重されるべきである。
第3人間の理法(ダルマ)なるものは固定したものではなくて、具体的な生きた人間に即して展開するものであるということを認める。実践哲学としてのこの立場は、思想的には無限な発展を可能ならしめる。後世になって仏教のうちに多種多様な思想の成立した理由を、われわれはここに見出すのである。過去の人類の思想史において、宗教はしばしば進歩を阻害するものとなった。しかし右の立場は進歩を阻害することがない。仏教諸国において宗教と合理主義、あるいは宗教と科学との対立衝突がほとんど見られなかったのは、最初期の右の立場に由来するのであると考えられる。(『釈尊の生涯』p.126-7)
したがって、ブッダを論じる上では、中村先生のものは必ず参照すべきでしょう。
きわめて多数ある著書の中でも、一般読書人が気軽に読めるものは『釈尊の生涯』(平凡社ライブラリー)です。
本格的に読むとなったら、何と言っても著作集の中に入っている大著『ゴータマ・ブッダ』(春秋社)です。
ただ、肝腎のブッダは何を覚ったかという点についての中村先生のお考えは、以下の引用のとおりで(一行空きは筆者)、どの本を読んでも、正直もう少しご自分の覚りについての解釈をちゃんと言葉で説明できるところまでは説明してほしいという思いが残ります。
その点、羽矢氏のものと、中村先生に近い世代の仏教学者としては故玉城康四郎先生のものは(これも時間があったら次にご紹介しますが)、ご自分の理解でちゃんと説明しておられて、なるほどと思わされます。
といってももちろん、文献学・歴史学的に正確に理解しようとするのなら、やはり中村先生の業績を踏まえるところから出発する必要があると思います。
…悟りの内容に関して経典自体の伝えているところが非常に相違している。いったいどれがほんとうなのであろうか。経典作者によって誤り伝えられるほどに、ゴータマのえた悟りは、不安定、曖昧模糊たるものであろうか? 仏教の教えは確立していなかったのだろうか?
まさにそのとおりである。釈尊の悟りの内容、仏教の出発点が種々に異なって伝えられているという点に、われわれは重大な問題と特性を見出すのである。
まず第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分の悟りの内容を定式化して説くことをせず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした。だから彼の悟りの内容を推し量る人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。
第二に、特定の教義がないということは、決して無思想ということではない。このように悟りの内容が種々異なって伝えられているにもかかわら、帰するところは同一である。既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。それは実践的存在としての人間の理法(ダルマ)を体得しようとする。前掲の長々しい四禅の説明も結局はここに帰着する。説明が現代人から見ていかに長たらしく冗長なものとして映ずるにしても、成心を離れて人間のすがたをあるがままに見ようとした最初期の仏教の立場は尊重されるべきである。
第3人間の理法(ダルマ)なるものは固定したものではなくて、具体的な生きた人間に即して展開するものであるということを認める。実践哲学としてのこの立場は、思想的には無限な発展を可能ならしめる。後世になって仏教のうちに多種多様な思想の成立した理由を、われわれはここに見出すのである。過去の人類の思想史において、宗教はしばしば進歩を阻害するものとなった。しかし右の立場は進歩を阻害することがない。仏教諸国において宗教と合理主義、あるいは宗教と科学との対立衝突がほとんど見られなかったのは、最初期の右の立場に由来するのであると考えられる。(『釈尊の生涯』p.126-7)
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ゴータマ・ブッダ I 原始仏教 I 決定版 中村元選集 第11巻 | |
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