大乗仏教の菩薩の願をまとめたものとして有名な「四弘誓願(しぐせいがん)」というのがあります。
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
私 訳
生きとし生けるものは無数であるが、必ず救うと誓い願う
煩悩は尽きないほどあるが、必ず絶つと誓い願う
真理の教えは量りしれないほどあるが、必ず学び続けると誓い願う
覚りの道はこの上ないものであるが、必ず成就すると誓い願う
こうした誓願・菩薩の理想は驚くべく高いものですし、私も感激的にすばらしいと思います。
しかし、こんなものを下手に真に受けたら――論理療法の用語でいうとmust化、つまり「ねばならない」という強制的な倫理として受け取ると――つまらないことになりかねません。
つまらないことの第1は、「私なんかには無理だ」と思って、引いてしまうことです。そういう心のことを「退弱心(こにゃくしん)」といいます。
しかし「無理だ」と思ってしまうと、実際にできなくなるというのが、潜在力の法則ですから、それはとても損な生き方です。
どうせ一回きりの人生ですから、できるだけ人間として豊かになる、深くなる、広くなるという人間成長をし続けないと、もったいないのではないでしょうか。
第2は、「私は仏教を学んでいるのだから、そういう菩薩であらねばならない」と思い、しかも自分の現状を見ると、「それなのに、私はそうではない」と、劣等感や罪悪感を感じてしまうということです。
劣等感や罪悪感も適度であれば、それをバネにして飛躍・向上することができますが、多くの場合過度になって、ただ「オレはダメなヤツだ」とか、「私はいけない人間です」と自己非難をして落ち込むことが多いのです。
しかし、自己非難による落ち込みは、何の役にも、誰のためにもなりません。
もちろん人間、反省は必要ですが、自己非難は不要・無用です。
第3は、これがいちばん恐いのですが、実際はそうではないのに、「私はそういう〔境地の高い〕菩薩だ」と高ぶり思い込んでしまうことです。
そうすると、自分の思い込みでいろいろなことを人に押し付けることを「慈悲」だと錯覚しはじめます。
この錯覚は、「慈悲(=いいこと)だから、人に押し付けてもいい」、「自分の思いは慈悲なのだから、人を自分の思いどおりにしてもいい」という恐ろしい結論に到りかねません。
この結論は、正義や神仏の名による犯罪や殺人や戦争の口実にまでなりえます。
仏教も含む宗教すべての恐ろしさは、こういう論理のすり替えが容易に行なわれうるということです。
そういう宗教の恐ろしさをたくさん見聞きしてきた結果、私は、こう提案することにしています。
「菩薩でありたい」と強く願うのはいいことですが、「菩薩であらねばならない」と倫理化・must化するのや、まして「私は〔境地の高い〕菩薩である」と錯覚するのは、ぜひ、やめましょうね、と。
空の智慧と慈悲というのも、いつの日にか行きたい遥か彼方の憧れの地にしておいて、行かねばならない義務的な目的地にしたり、まして今いる場所と取り違えたりしないように、気をつけたほうがいいんじゃないでしょうか、と。
そんな気持ちもあって、四弘誓願を超意訳(「超訳」というのは商標登録されているそうなので)してみました。
超意訳 「四つのおおきな願い」
世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。
つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。
いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。
ほんとに最高にいい人になれるといいよね。
*この4つの言葉は、それぞれの後に(なるべくそうなるように努力しよう)という気持ちを補って読んでください。
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漢文→私訳→超意訳、この表現のあまりの落差、まったく同じことを言っているのに!
いきなり超意訳を読んだら某相田さんのへたうまの色紙の言葉みたいですが、前のを踏まえると、深くてやさしいという感じでとてもいいですね。
ここにおいても論理療法なのですね。must化こそがいろんな不自然な問題を起こしていると。これも単純なようでいてとても深いと思いました。
ということで、お目にはかかりましたが、ブログでは初めまして、よろしくお願いします。
昨日は、小ブログにコメントいただき、恐縮しました。
「願」というのはいいですね。
「願楽」という言葉も好きです。
「楽」が「ねがい」と「たのしみ」という両方の意味があることがうれしいです。
「ありたい」という「願」をもっていたいと思います。
私は2番の苦しみです。自分と目指すべき菩薩の生き方との乖離に苦しんでいるタイプでした。あとどうせダメだよなという一番もありました。
MUST化することなく、なるべくそうなるように努力していこうと思います。
有り難うございました。
気に入りました。
折りに触れ思い出したい言葉になりました。
また、こう在らねばならないとなると思いあがったりして、上手く行かない。
自分が無くただ行う、こんな境地がいいんですが、つい私は傲慢になってしまいます。
肩の力をぬいてただおこなう・・・・
ウスイツカサ