唯識は、大乗の菩薩のための学です。
「菩薩だけのために説き、凡夫に対しては説かない」とはっきり言われています。
では、凡夫=平均的な人間と菩薩=覚りを求めている人間は、どこがちがうのでしょう。
『摂大乗論』では、菩薩には三十二の特徴があるといわれています。
一度では学びきれませんから、今回は最初の八項目をあげました。
「もし菩薩が三十二の特徴を持っているならば、菩薩と呼ぶことができる」。
①「一切の衆生を利益し、安楽ならせたいという意志を持っている」とは、一切智者の智慧に導き入れる意志、すなわち伝えていくことを行ずるというカルマである。
②「私は今、どのような境地でこのような智慧に対応するべきだろうか」。すなわち転倒のないカルマによってである。
③「高慢な心を捨てる」とは、すなわち他者に頼まれることを待たず、自ら実行するカルマである。
④「堅固な善意」とは、すなわち壊しえないカルマである。」
⑤「かりそめに憐れむのではない意志」とは、すなわち求めるところのないカルマである。
⑥「恩がえしを欲しがらない」。」
⑦「親しい者と親しくない者とに平等な意志」とは、すなわち恩のあるのと恩のないのとの衆生に対して愛着と憎悪の心を起こさないことである。
⑧「永遠に善き友となるという意志が無余涅槃に到る」とは、すなわち誠実にかたわらにあって行為し、次の生にまで到ることである。
(摂大乗論現代語訳一〇三~四頁)
読んで味わうだけでも十分なことばですが、誤解しがちなポイントについて、少しだけ解説をしておきます。
これらの特徴は、常識的に見ると、「たしかに立派だが、並の人間にはとてもできそうもない高すぎる理想」と思えるという点です。
しかしまさにそこがポイントですが、菩薩とは、「自分だけで存在している自分などというものはない。自分は他者や他の物や宇宙全体とつながっていて、そのお陰で生きている。ただつながっているというより、むしろ一つなのだ」と、聞いて、考えて、納得したからこそ、修行を始めた人です。
ですから、菩薩は、一切の衆生とは自分も含めたすべての生きとし生けるものだと、たとえ理屈だけでも知っているはずです(といっても、初心のうちはしょっちゅう忘れますが)。
だとすると、「一切の衆生を利益し、安楽ならせたい」というのは、自分の幸福は脇において、自分と分離した他人のためにひたすら自己犠牲をするということではなく、もともと一体である自分と他者を一緒に幸福にしたいということです。
本当の私は他者とつながっており、究極的には一つですから、私だけの幸福というのは、深い意味ではありえないし、無理な努力をして私を犠牲にして他者だけを幸福にしなければならないという話ではないのです。
つまり「自利利他」であり、それは本当の自己のやむにやまれない、自発的な願いです。
ここがわかれば、他も高邁だが無理な理想ではなく、深くて自然な願いだとわかると思うのですが、いかがでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます