来週15日の東京土曜講座の内容について、少し詳しくお知らせし、ご参加をお誘いしたいと思います。
古代日本の天皇と仏教:従来の左翼進歩派的評価への反論
戦後から一九七〇年前後まで、日本の言論界の主流はソ連型社会主義・共産主義を目指すべき社会的正義のモデルとする左翼進歩派だったと思われます。そして一九八九年の東欧の共産党政権の崩壊、一九九一年十二月のソ連の崩壊によって、もはや完全に主流ではなくなっていますが、まだ名残りは残っているようです。
筆者は、かつてそうした左翼進歩派の歴史学者の日本史の見方(あえて言えば偏見)に大きく影響を受けてしまいました(あえていえば洗脳)。代表的な言葉を引用しておきます。
「仏教は、聖徳太子の後も、歴代の朝廷から、ますます厚く保護された。……これほど朝廷から保護された仏教は、もっぱら『国家鎮護』すなわち天皇制の安泰を祈ることを使命とするもので、個人が戒律をまもり正しい道をおさめて、悟りをひらき魂の救いを得るという仏教の根本精神からは、まったくはなれたものであった。またこの仏教は民衆の信仰とも関係がなく、僧侶が民衆の間に仏教を説くことや、民衆が寺に参るのはゆるされないことも、以前と同じであった。」(井上清『日本の歴史 上』八四頁、一九六三年、岩波新書、強調は筆者)
ここでは、国家=朝廷=天皇制=悪、民衆=善という左翼史観の図式による古代仏教への否定的評価がなされています。
そして、「仏教の根本精神」は「個人が魂の救いを得る」ことであり、個々人としての民衆の信仰=魂の救いにならなかった・しなかった国家仏教は、左翼史観からはもちろん、仏教として見てもダメだという評価がなされています。
こうした古代仏教への否定的評価は、いまでもかなり多くの日本史の本や論文に見られるものです。
それに対して筆者は、これまで『日本書紀』や唯識や般若経典そのものの内容を学ぶことによって、
①「『国家鎮護』すなわち天皇制の安泰を祈ること」という評価は事の半分しか見ていないこと、
②「仏教の根本精神が個人の魂の救いを得る」ことだという理解は、大乗仏教・般若経典の思想の理解不足・誤解であること、
③仏教・唯識の「支配者であれ民衆であれ人はみな無明に捉えられた八識の凡夫であって煩悩だらけである」という洞察からすると、国家・支配者=悪、民衆・人民=善(したがって人民の味方である共産党とその指導者の独裁=絶対的善)という図式的人間観は、あまりに単純かつ無効・有害だと思われること、
という三点について、古代日本とそのリーダーたちに関するネガティヴな偏見を克服することができたと考えています。
今回は、天武天皇と聖武天皇に関わって、主に①と②について述べていきたいと思いますが、第一回2月15日(土)は、まず天武天皇と『仁王般若経』について考察していきます。
誤解を避けるために最後に一言コメントしておくと、こうしたアプローチは、成功しているかどうかの評価は参加者のみなさんにお任せするとして、筆者の意図としては右でも左でも中道でもなくそれぞれの妥当な部分を統合する試みです。
ぜひ、日本人のアイデンティティの確立・再確立について関心のある多くの方に参加していただき、ご一緒に考えていただければと願っています。
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