禅定と安らぎ:唯識のことば12

2017年02月06日 | 仏教・宗教

 唯識学は禅定の体験をもとに理論化されたものです。

 ですから、実際に自分でも体験しないと実感できませんし、実感できていないと十分日常生活の役に立つというわけにはいきません。

 しかし、せっかく人間は煩悩だらけの状態から爽やかな状態へと変化できるという唯識のメッセージに出会ったのですから、それを体験・実感していただけるといいと思うのです。

 そこで、実際の方法は『唯識で自分を変える』(すずき出版)などで自習か、講座に参加していただいて、自分のものにしていただきたいのですが、ここでは、『摂大乗論』の句を参考に、禅定をするとどういう心の状態になるのか、少しイメージできるように描いてみたいと思います。


 菩薩が禅定に入り
 心はただ影像のみであると洞察し
 外界という相を離れ去り
 まちがいなくただ自らの想念を見るのみであると洞察する
 菩薩は内面に止まり
 見られるものが存在しないことに悟入し
 次に見ることも空であることを洞察して
 後にその双方が妨げを超えたもの(無碍)であることを悟る

               (『摂大乗論現代語訳』第三章より)


 禅定を始めてある程度の時間が経ち、心が静かになり外の刺激が意識から遮断されると、内面に浮かぶ想念・イメージに注意が集中されていきます。

 それは、よく洞察すると、たしかに「外界に関する」想念なのですが、しかし「想念」であり、つまり心の内面で起こっているだけです。

 つまり「外界そのもの」ではありません。

 まちがいなくただ自分が自分の心のなかに描いた想念を見ているだけなのです。

 不思議というか面白いというか、心のなかの想念をただの想念としてじっと観察していると、しだいに静まり、消えていきます(禅定に習熟していないと、すぐに、いつでも必ずというわけにはいきませんが)。

 内面に集中し続けていると、見ていた対象は想念であって、実体ではないことに気づきます。

 つまり、本当には存在しないのです。

 対象を見ているつもりが実は想念を見ているだけで、それは実在ではないと深く気づくと、それを見る私という想念も消えていきます。

 見られる対象・客体と見る私・主体の分離=妨げがなくなって、しかしはっきりと目覚めた心だけが残ります。

 世界と私が一体である、さらには世界も私もない、という目覚めだけがありありと現出するのです。

 こうした「無分別智」を体験すると、実に爽やかで安らかな気持ちになれます。

 例えば苦しめるものと苦しめられるものの分離・対立もなければ、悩ますものと悩ませるもの分離・葛藤もないのですから、当然といえば当然でしょう。

 もちろん徹底した無分別智は高い境地に達した菩薩しか得られませんが、スタートしたばかりの菩薩でも禅定をある程度修得すると、すればしただけの安らぎは必ず得られるようになります。

 そういう意味で、ストレスだらけの人生を乗り切るには、禅定はお勧めの方法です。

 関係者のみなさん、今年も実践していただけるよう、ご精進をお祈りしています。




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