社会をそれぞれ孤立した個人の集合と考える近代の個人主義――しかもかなり矮小化された――を小さいときから教え込まれ、個人同士の比較・競争が大前提――これは「連帯」の真っ逆さま――の社会で育つと、残念ながら当然、多くの若者の心がひねくれます。
下記の学生がそのひねくれ方を典型的に語ってくれています。「どうせ愛されてない」「他の人なんて別に知らない」などなど。
しかし、心はどんなにひねくれても大自然はひねくれておらず、真っ直ぐですから、そのつながりという真理を伝えて理解できると、素直な「感謝や温かい心が持てるような見方ができるように」なるのです。
ひねくれていると法則的に、自分も不幸になるし、まわりも不幸にします。すべてはつながっているという事実に基づいて、みんなが素直になれるといいのになあ、と切に思う年度末-新年です。
H大学社会学部1年女子
今まで私は“宗教”というものに嫌なイメージを持っていた。偏った教えを詰めこまれるんだろーなー。とか、とにかくネガティブなものだった。(先生ごめんなさい)でもむずかしかったけど、私には理解することができたように思う。全てのものはつながっている。親とかその前の親とか。それに食べものも、空気も。深く考えると、私が今の性格も、様々なものや人が関わって「私」がいる。私なんて、どうせ愛されてない。とか、どうせ私は私だから、他の人なんて別に知らない。といってひねくれた私の態度を変え、感謝や温かい心を持てるような見方ができるようになりました。私の中にはまだマナ識やアーラヤ識がたくさんあると思う。しかし、少しでも覚りの道へ行けるようにもっと唯識を理解し、進んでいきたいと思った。
「・・・・・・重々帝網なるを即身と名づく」
を思い出しています。つまり、私たちは広大無辺な虚空に広がる透明な網目のように一人ひとりが繋がっているというのです。
どんなに遠くにいる人とも、見えない場所にいる人とも、繋がっているというのです。このため、「即身」つまり、どんなに遠く離れた人にも想いが届いたり、願望がかなっていくというのです。(塩崎正峰著『まことの言葉・開運の教え」p80-87より)
私(73歳)は25歳のとき、北海道根室市で勤務していました。そのとき父親(47歳)の突然の危篤の電報を受けたとき、一瞬に死臭が漂いました。約一時間後に、帰郷の準備をしているとき父親の死亡の電報を受けました。このことはつまり「重々帝網なるを即身と名づく」の体験であったと思うのです。
こういうわけで私は今、「祈り」ということの意義を大切にしています。
やはり常識では考えられないかたちで、人の心はつながっているのですね。
大切な体験を伝えていただき、感謝しています。