リルケは、高校生時代から愛読してきたもっとも好きな詩人です。
残念ながら、現代の日本ではほとんど読まれなくなっているようですが。
それは、おそらく時代の雰囲気がそれぞれの人が自分自身をかけがえのない存在と捉えることを「クライ」とか「オモイ」という言葉で軽蔑し遠ざけようとしていることが大きく影響しているのだと思います。
なるべく自分を軽いものと思ってしまうことが時代の流行のようです。
しかし時代の雰囲気がどんなに軽くなっても、事実として人の生と死は一度きりでかけがえがなく、いやおうなしに重いものです。
そういう他の誰に代わりに生きてもらうこともできない自分自身の生を生きるということを、リルケほど切実に歌った人はいないかもしれません。
しかし同時にリルケは、生というものが単に今生の個人的な生だけで成り立っているのではないことに深く気づいています。
ある種の神秘主義的な永遠の時のなかのめぐりつづける生を直感しているのです。
次の詩は、修道士の生活に託して、リルケ自身の生への想いを語ったものだと想われます。
「僧院生活」の巻より
もろもろの事物(もの)のうえに張られている
成長する輪のなかで私は私の生を生きている
たぶん私は最後の輪を完成することはないだろう
でも 私はそれを試みたいと思っている
私は神を 太古の塔をめぐり
もう千年もめぐっているが
まだ知らない 私が鷹なのか 嵐なのか
それとも大いなる歌なのかを
(M・R・リルケ/富士川英郎訳『リルケ詩集』新潮文庫)
「もろもろの事物のうえに張られている/成長する輪」という言葉から、私は直線というよりらせん状に上方に向かって伸びている「コスモスの進化の方向性」を連想します。
私という、この身体と心に限定された個人の生がコスモスの進化を完成することはもちろんありえません。
しかし、それを試みたいと願うことはできます。
それが、コスモスの進化の流れに参加するということだ、と私は思うのです。
そういう願い・思いは個人としての私を超えて必ず引き継がれていきます。
個人は死にますが、いのちと願いは遥かな時を超えてつながっていく、と信じています……というより認識しているのです。
リルケからコスモロジーへと話は発展してしまいました。
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