山中湖の白鳥
アーラヤ識に溜まっている煩悩を素材として構成された無意識の心理システム・マナ識は、素材がすべて善と覚りの種子に入れ替わってしまうと、当然ながらまったく別の心理システムに変容します。
すべてのものと自分との一体性=平等性にたえず目覚めているという、おどろくべき無意識システム・「平等性智」になるのです。
それまでさまざまなもの(者・物)と出会った時、「なぜか」「ふと」「どうしても」自我中心的に反応していた――〈マナ識反応〉!――のが、自然に、ありのままに、まったく無理なく、自利利他的に対応できるようになる、というのです。
心の底が変容すると心の奥にある実体的な自我への執着も解きほぐされ、解放され、やわらかでのびやかで自然な、自他の調和を図ることのできる心に変容するわけです。
それに関して、どこかですでにお話ししたかもしれませんが、きわめて重要なので繰り返しておくと、自他の分離意識があるままで「自分を他者のために犠牲にする」というのと、自他の一体感があるために「自利と利他が調和するよう行動できる」というのは、似て非なるものだと思います。
「自己を犠牲にする」とか「自己を捨てる」というのは、その前提に「自己」が自分の――たとえ理想であったとしても――好き勝手にしていい所有物であるかのような錯覚があるのではないでしょうか。
犠牲にしたり捨てたりする以前に、自己は自己によって成り立っているものでもなければ、自己の所有物でもない、という事実があります*。
あえていえば、自己はその一部であるという意味で宇宙の所有物だといってもいいでしょう。
ですから、平等性智が開けて宇宙の働きに沿って生きるようになった時、場合によって「他者のために犠牲になっている」と見える行為をすることもあるでしょう。
しかし、ある場合は「自由自在、自分の好きなように生きている」と見えるような振る舞いをすることもあります。
それは、その時その時の宇宙の働きの方向に自然に従っているだけのことなのです。
そういう心の奥深いところから湧いてくる自然な振る舞いや感情の源泉が「平等性智」と呼ばれているのだ、と言い換えてもいいと思います。
もちろんそれは、もっとも典型的なケースでは、他者の苦しみを自然に自分の苦しみと感じるために誰に頼まれたわけでもなく自分がやりたいから他者のために働く、いわゆる「慈悲」となって現われます。
しかし平等性智の開けた人にとって、苦しみや不幸も喜びや幸福もすべて宇宙のことですから、絶対的な対立と捉えてどちらかでなければならないとは考えないのです。
すべては「あるがまま」でいいと感じています。
しかし、無常なる宇宙では固定して変わらないという意味での「あるがまま」はありませんから、「なるがまま」と言い換えてもいいでしょう。
宇宙の「なるがまま」が心の奥の「なしたい」という無意識の願望と一致しているのです。
そこで、宇宙のなそうとしていることが自分のしたいこと、自分のしたいことが宇宙のなそうとしていること、というふうに自然に自由自在に生きるわけです。
ですから時には、苦しんでいる衆生を町や村に置き去りにして、一人清々しい野や山に隠れて「智慧」つまり宇宙との一体感の楽しみにふけることもあります。
あるいは高い山から清らかな水が流れ下って、低地の村々を潤すように、智慧の楽しみを人々に伝えようとすることもあります。
しかしいずれにせよ、悪い意味での倫理的に硬直して、「慈悲を行わなければならない」とか「瞑想して智慧を得なければならない」とか「得た智慧を衆生に伝えなければならない」というふうにはならないのです。
……と、「講釈師――講談を語る人のことです――見てきたようなウソをいい」ではありませんが、知ったふうなことを言いました。
これは、私の若干の禅と唯識の学びからした、「平等性智」とはそういうことらしい、という推測的説明にすぎません。
もしかしたら、ちょっと大きめの池を見ただけなのに、海の話をしているのかもしれませんから、ご注意ください。
しかしそれにしても、完璧に「平等性智が開けた」という境地には憧れますね。
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在庫入れ替え、サボっていられません!
>しんすけさん
人間の意識にはそこまでの可能性があるらしいですよ。
私も、まだチャレンジ中、在庫入れ替え中ですが。
とのこと。
よく分かりました。
自己犠牲も、ある意味での自己への執着と言えるわけなんですね。自分の命とて、すべて一体の宇宙のものなのだから、自分の好き勝手に使っていい訳ではない。
自他の調和が取れた、命の生かし方が大事であると。
あ~平等性智の方に、少しは転じて欲しいものです・・・。
あ、自己の努力精進っすね・・・汗