日帰りの京都出張で、新幹線の中です。
仏教系のR大で「唯識―心の仏教」という講座シリーズの1コマ、「唯識仏教と心理学」という公開講義をしてきます。
このテーマで1時間ほどで「高校生にもわかる平易な講義を」という大変な注文なのですが、まあなんとかなるでしょう。
ここのところワーカホリック気味なので、のんびり寝ていくつもりだったのですが、持って来た沖田行司『日本人をつくった教育―寺小屋・私塾・藩校』(大巧社)が面白くて、つい読んでしまいました。
その中で紹介されていた横井小楠の言葉に感動しています。
☆
天地の為に志を立て、生民の為に命を立つ。往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く。学者発心の初め、須らく此大志願を立つべし。
「天地のために志を立て、民を生かすために命を立てる。過去の聖人のために絶えようとしている学問を継ぎ、後のすべての世のために平和をもたらす。学ぶ人間は学ぼうという気持ちになったその最初に、必ずこういう大きな志・願いを立てるべきである」といった意味でしょう。(←帰宅後の増補です)
こういう大きな志を抱いた若者が、日本にはいたんですね。
◎携帯からです。
初めてです。
トランスパーソナル心理学と仏教両方を学習・研究しているものです。
よろしくお願いいたします。
ネット授業は受けていましたが、コメントの方はサボってました・・・。
また復活します!
これからも宜しくお願い致します!
ご紹介の言葉、大志が溢れていますね。そんな言葉には力づけられます。
クヨクヨ、ダラダラせずに頑張ります。
私塾は日本を変える。
志塾が日本を変える。
励みます。
それにしても、日帰り京都。
もったいない気持ちになりますね。
○携帯からです…
その中で認知症、痴呆に関して、面白い話があるんですが、とぼそっとおっしゃっておられましたが、ぜひ続きがお伺いしたく、早速ブログに書き込みをさせていただきます。
人間が生まれ、生き、老い、そして死ぬというプロセスの一番最終段階にでてくる痴呆という症状が(最近では老年期のみの問題ではないようですが...)死に挑んで、その人のいのちに何か浄化のようなものをもたらすものなのかなぁとふと感じたことがあるのですが、先生はどのように考えてらっしゃるのか大変興味があります。
人によっては自分がボケるくらいなら死んだほうがましだという方も中にはおられるかもしれません。ちょうど今、読んでいる本の中で(「安楽病棟」帚木蓬生著・新潮文庫)、実際「尊厳死」が容認されているオランダでは、"Life terminating"や"Life shortning"ということで、同意能力を持たない重篤な障害をもった新生児、長期の昏睡患者と同様に、重篤な痴呆患者に対しても本人の要請なしで、致死的な薬の投与や治療中止が行われることもあるとありました。
また、オランダのこうした事実の背景には、神だけが無限で、人間の生命は所詮「有限」だとするキリスト教の思想があるということも書いてあったのですが、いのちは「有限」だとドライに割り切り、人が(自分も他人も含めて)コントロールするということ(普段何を口にしてどう動いているかということからすでにいのちをコントロールしていることになるのかもしれませんが...)に対して、先生はどう考えられるのかも是非お聞かせ願えたらと思っております。
お伺いしたいことがたくさんになってしまいましたが、コメントいただけましたら幸いです。
よろしくお願いいたします。
はじめまして。公開授業でお目にかかれて幸いでした。
ぜひ、ネット授業も続けてご出席ください。
>りょうさん
お疲れさまです。人生いろいろで、けっこう疲れますね。
ま、ちょっと休んでまた働くという線で行きましょう。
>HIROさん
小楠の言葉、心動かされますね。
サングラハは志塾です。励みましょう。
そう、京都日帰り、とてももったいなかったです。せめての散歩については、上の記事をどうぞ。
>きぬさん
公開授業、ご出席、お疲れさまでした。
認知症については、サングラハ教育・心理研究所の雑誌『サングラハ』に東大医学部名誉教授で痴呆・老人医療がご専門の大井玄先生が、非常に役に立つ連載をしてくださっています。
介護のあり方次第では、痴呆状態は限りなく覚りに近い安らかな心境になるとのことで、大井先生は、老衰を別にすれば、痴呆でガンで死ぬのがいちばんです、とおっしゃっていました。
ブックマークから研究所のHPにアクセスして、よろしければご講読いただくと、参考になるのではないかと思います。
また、大井先生には『痴呆の哲学――ぼけるのがこわい人のために』(弘文堂)というすばらしいご著書があります。
痴呆に関する私の意見は大井先生から教わったものばかりです。
あと、尊厳死については、私も肯定していますが、まわりの判断による安楽死には大きな疑問を抱いています。
「痴呆の哲学」是非拝読させていただきたいとおもいます。