ふわり・舞う・毎日

気持ちに余裕がないと、心の泉が枯れちゃうもんね。

万が一など考えたくはないけれど

2009年06月19日 | 日常雑記
もう昨日のことになるが、衆議院で臓器移植改正法案(A案)が可決されたとニュースで報じられていた。

「脳死は人の死」。

この案によれば、生前に明確な意思が確認できていなくても、家族が同意をすれば臓器提供ができることになる。
そして、15歳未満の子供からの臓器提供も可能となる。

例えば万が一、えいみが脳死の人からの臓器移植手術を受けなければ余命いくばくもない病気になってしまったら……?
「誰かの死を望むなんて」と言われたとしても、臓器提供を受けるチャンスを切に願うだろう。

ではもし万が一、えいみ自身が脳死状態になってしまったら……?
どれほど「一刻を争う命が待っている」と言われても、「ハイ、どうぞ」と即断はできないに違いない。
身体を触れば温かい、ただ眠っているようにしか見えない我が子がそこにいたとしたら、どんなに可能性が皆無と言われたとしても、奇跡を信じて待ちたいと思うだろう。

提供を拒むことで、
「待っている子がいるのに、自分たちだけ良ければいいのか」
と批判されたり、逆に提供をしたことで、
「お金のために子供を売った」
と陰口を叩かれたり。
提供を待つことで、
「他人の不幸を望んでいる」
と噂されたり。
そんなことだけは、絶対にあってはならない。



一刻を争い、臓器提供を待つしか命をつなぐ方法のない人たちにとって、今回の改正案の衆院可決は待ちに待った知らせだろう。
選択肢が増え、新たな道が開けることは良いことだと思う。

でもそれは、あくまで提供をする側、受ける側の決断が最も尊重されるものでなければならない。
大切な命の問題に対する決断を、赤の他人がどうこう言っていいわけがない。
同意も拒否も、当事者にとっては身を切られるよりも辛いことなのだから。

この法案(A案)がそのまま参議院を通過するかどうかは、まだ不透明だ。
修正案が出されるなりして多少違った形になるかも知れない。
もし成立し運用されることになった時には、何よりも当事者たちの意思が尊重され、他人の目によって二重に辛い思いをすることのないような社会であって欲しい、と強く思う。