坂田雅子さんのドキュメンタリー映画『花はどこへ行った』。
今日(6月3日付け)の信毎文化欄は、須坂出身の坂田雅子さんが、ベトナム戦争で米軍が使った枯葉剤の被害が今も続く現実をベトナムに取材して、映画化した『花はどこへ行った』を取り上げていた。
この映画のことについては耳にしていて、坂田雅子という名前にも覚えがあったが、よくある名前なので、私の知っている坂田雅子さんだとは思っていなかったのだが、今日の記事で、「やはり、あの坂田雅子さんだった」ということがわかった。
と言っても、私は坂田さんのことをよく知っているわけではない。
1948年生まれの坂田さんは、高校時代、交換留学生の制度を利用して、1年間アメリカに留学し、高校3年の9月に帰って来て、私達と同学年に編入した。
別のクラスだったが、60年代、地方の高校で、そんな体験をする人はめったにいないので、印象に残っていた。さらに彼女は京大の文学部に進学したので、これも、私達の女子高ではめったにないことなので、よく記憶している。
記事によれば、京大の学生時代に、ベトナム戦争に従軍経験のあるアメリカ人の夫に出会い、結婚したとある。
その時、夫は「ベトナムで枯葉剤を浴びたので、子どもをつくることはできない」と言ったという。
思えば、60年代半ばから70年代前半にわたる「ベトナム戦争の時代」は、私達の10代後半から20代前半の時代だった。
日本とアメリカの若い男女が出会って結婚したという、何気ない事実に「ベトナム戦争」の影が覆ったのだ。
その時は、坂田さん自身は「ベトナム戦争」に特に関心があるわけではなかったのだが、ところが30年後、夫は肝臓ガンで亡くなる。54歳だった。
夫の親友から「夫のガンは、枯葉剤の影響ではないか」と言われたときから、坂田さんは「ベトナム戦争・枯葉剤」に向き合うことになる。
夫のグレックさんは、フォトジャーナリストとして、アジアを中心に活動していて、坂田さんも経歴を見ると、写真関係の仕事をしてきている。
悲しみを乗り越えるために「何か行動を起こさなければ」と、ここからが、高校時代に交換留学生に応募するような積極的でガンバリ屋の坂田さんらしく、アメリカに留学し、ドキュメンタリー映画制作の基礎を学び、ビデオカメラを持って、ベトナムに取材に出かけ、またアメリカのベトナム帰還兵へのインタビュー、アメリカ軍撮影の枯葉剤散布の映像も交えて、映画を作り上げた。
枯葉剤の影響は、3世代にもおよんでいる。原爆の被害が子々孫々に及ぶのと、それは同じ構図と言えよう。
坂田さんの映画は、告発というより、深い傷を描きながら、絶望ではなく、生き続ける人間のたくましさを伝えるものになっているという。
タイトルの『花はどこへ行った』は、60年代、ピーター・ポール&マリーやジョーン・バエズが歌ってヒットした反戦歌から取っている。
14日から岩波ホールで公開され、その後、大阪、神戸、名古屋でも順次公開の予定とか。長野は未定。
坂田さんが、単なる「学校秀才」として、人生を送ったのではなく、学校を出てから進化していったという事実に、私は一番感心した。
村上春樹の世界。
村上春樹という外国でも非常に支持されている作家に、私は余り感心がなかった。
同世代、同学年であることに気づいたのも割合最近だ。自分より若い人だという錯覚があった。
あまりのベストセラーぶりに、どんなものかと『ノルウェイの森』を読んだ。特に感心しなかった。「オタク文学」だと思った。
それでも村上春樹の快進撃は続き、もう一度『海辺のカフカ』に挑戦してみた。
またも世評ほどには心を打たれなかった。私と村上の感性は相性がよくないようだ。
これまた信毎の文化欄だが、「風の歌」という村上春樹の物語世界をたどる連載がある。
学生運動が盛んだった頃に、大学生だった村上だが、彼の作品にその頃の空気を特に感じていなかったのだが、『ノルウェイの森』には、その頃の大学内の状況を描写している部分もあったのを、この連載で知った。私は忘れていたらしい。頭の中で読み飛ばしていたのだろう。
そこには、「大学解体」を声高に叫んだ学生達だったが、講義が再開されると、最初に出席してきたのは、ストを指導した学生達だった、ことが描写されているという。
私は、『二十才の原点』の高野悦子を思い出した。
彼女は、立命館大学で、全共闘運動が最も高揚した時期には、迷いながらキャンパスをうろついていたのに、運動が崩壊して孤立し始めると、逆にその孤立の隊列に入っていった。
『ノルウェイの森』の作中人物の僕は、運動を指導した学生達の言葉と行動のあまりの乖離に怒り、その怒りを授業出欠の点呼に返事をしないという形であらわす。
時流に巧みに乗っていく人間からすれば、意味のない、行動、こだわり。
村上春樹と高野悦子は「共感しあう魂」であったかもしれない。