蒟蒻問答 第194回から。堤 堯×久保紘之
見出し以外の文中強調は私。
安倍の「国葬」は外交上必要不可欠
国葬是非の質問がおかしい
編集部
今年秋に行われる予定の安倍元総理大臣の「国葬」について、NHKの世論調査では、七月は(開催を)「評価する」が四九%、「評価しない」が三八%だったのに、八月になると「評価する」が三六%、「評価しない」が五〇%と、意見が逆転してしまいました。
堤
そもそも「国葬をどう思いますか」という質問自体、おかしいんだよ。安倍の功績を考えれば、国葬は当然じゃないか。その是非を訊くまでもない。
久保
「国葬」の是非については、産経新聞「正論」欄(八月三日付)で、百地章が「国家儀礼としての『国葬』粛々と」と題した一文で言い尽くされています。
野党や朝日などのメディアは、旧統一教会と自民党政治家との関係を批判し、国葬是非を問うキャンペーンを展開。
最初、七~八割が好意的反応だった世論もそれに誘導されて、軒並み反対論に傾く結果が出てきています。
憲法学者の小林節(日刊ゲンダイハ月九日付)なんかは、真正面から「安倍国葬は違憲である」と断定しています。
しかし、百地によれば戦後、国葬令が廃止されたため、昭和四十二年の吉田茂の国葬は閣議決定により行われた。安倍国葬はそれに倣ったものである。だから、具体的な法令上の根拠はないけれど、憲法上、内閣は行政権の担い手であり、その行政権のなかには立法権や司法権以外の全ての国家作用が含まれており、今回の国葬はこの憲法に基づく閣議決定によって行政措置が執られたということであり、国葬は内閣設置法(第四条)に定める「国の儀式」と位置づけられるーと解説しています。
だから、野党や一部メディアが昭和天皇の大喪の儀の頃のように、全国の自粛ムードが広がるという、ためにする議論は成り立たない、あくまで行政措置に基づく国の儀式なのです。
堤
二百五十九の国・地域から一千七百件の弔意がきており、各国首脳だけでなく、これまで安倍とかかわってきた各国の旧首脳、トランプやメルケル、オバマらまでもが国葬に参列する意向を表明している。
そういう彼らに、「日本国内では半分が国葬に反対している」と言ったら、どんな反応をするかね。
無言で肩をすくめるか、気の利いた奴なら「予言者。故郷に入れられず」という言葉を思い出すと言うかも。
久保
岸田にどういう思惑があるにせよ、国葬を即断したのは評価できます。
日本の国際的な地位と存在感をかつてないほど高め、評価も群を抜いた安倍の葬儀には、堤さんが指摘したように多数の国々から参列者が予想される。
ならば、曖昧(あいまい)な「国民葬」や「合同葬」ではなく、国際朴会において確立した国家儀礼としての「国葬」を閣議決定による行政措置として行うことは、政治判断として全く正しいし、筋が通っている。
岸田にとっては、それによって安倍外交の正統な継承者として堂々と弔問外交を展開できるチャンスですしね。
ジョン・F・ケネディが座右の銘にしていたと言われるハンス・モーゲンソーの著書『国際政治』(福村出版)は、外交上の威信政策について、こう書いています。
「いかにバカバカしいものであっても儀礼上の規則、位階や席次をめぐる論争、空虚な形式主義-これらがつきものの外交の世界はまさしく民主的生活様式のアンチテーゼというはかない……が、実際には国家関係の本質的要素である」
その言葉に倣えば、そうした権力闘争のメッカである国際社会において確立した国家儀礼としての「国葬」として安倍の葬儀を行うのは、威信外交上、必要不可決で、それに対して、「倫理」を持ち出したり、「憲法違反だ」などと声高に叫ぶのは、国際外交の本質的な要素を理解できない無知蒙昧なアホ、マックス・ウェーバーの言葉を借りれば「外交のイロハも知らぬ政治的未熟児」と言うべきでしょう。
この稿続く。
既述の様に定期購読にしたのだが、先月に続いて発売日に届かなかった。
信じがたい話だが、仕方がないから、最寄りの書店で購入。