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文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

ドイツでもヒットラーが優勢保護政策をやっている。それを加藤シヅエはGHQのバックアップでやった。朝日新聞も一緒になってGHQの言うとおりだと報道した。

2020年08月31日 18時32分05秒 | 全般

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之と世界有数の中国通である宮崎正弘が対談した下記の素晴らしい本からである。
この本は日本国民が今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない本である。
世界の人達にも必読の書であるが、それは私が出来るだけ伝える。 
前文省略
高山 
北朝鮮軍が、突然38度線を越えて、攻めてきた。
それまでは日本が支配していたから朝鮮半島は防衛の砦になっていた。
日本がいなくなったとたんに朝鮮半島は分断されて、半分は共産化してしまったわけです。 
日本人はキリスト教も嫌いだけど、共産党も嫌悪して警戒を怠らなかった。
それがアメリカにはさっぱりわかっていなかった。 
ダグラス・マッカーサーの部下だったウィリアム・シーボルドが『日本占領外交の回想』(朝日新聞社)という本に、日本にきたら政財官界の人と会うたびに「共産党を警戒するように」と言われたと書いています。
日本を占領したアメリカ人は当初、共産主義、コミュニストを別に警戒していなくて、昭和21(1946)年の第一回普通選挙の時には、共産党員を獄中から全員釈放して立候補させ当選までさせている。
宮崎 
宮本顕治も徳田球一もみんな解放した。
高山 
戦後第一回の総選挙は、GHQが本当に得票まで差配したいい加減な選挙だった。
女のセックスを男並みに解放しろという加藤シヅエも議会に送り込んだ。
まさにマッカーサー・チルドレンで、彼らによって、マッカーサー憲法を承認させた。
共産党のほか女性39人が当選した戦後第一回総選挙はすべてGHQが仕組んだやらせだったと思った方がいい。
宮崎 
全員通ったんですか。  
高山 
全員当選です。
加藤シヅエの記録を読むと、ある日、米軍の将校が来て、出馬を要請される。  
宮崎 
加藤シヅエの亭主は社会党政治家の加藤勘十ですね。  
高山 
なぜ加藤シヅエに白羽の矢が立ったのかというと、彼女は家族計画運動で産児制限の必要性を訴えていたアメリカのマーガレット・サンガーの一番弟子だったからです。  
日本を滅ぼすには、憲法で武器を持たせない、軍隊を持たせない、交戦権もなくす。
あと、国を亡ぼすには人口を減らすのが一番いいから、それで女の権利でコンドームをつけろと言って騒いだ。 
マーガレット・サンガーは「男だけが遊んでいる。女は遊ぶと身ごもってしまう。これは不公平だ」と言って、各種のコンドームやペッサリーをつくった女性です。
サンガーは女も遊べる世界にしようとしていた。 
アグネス・スメドレーも一緒でした。
男に弄ばれ、結婚すれば赤ん坊の面倒ばかり。
それが不満で亭主と子供を捨てて飛び出してきた女です。
スメドレーと加藤シブエはサンガーの下で一緒に女が遊べる社会づくりに励んだ。
スメドレーはそのあと上海に行きます。 
上海に行って、男遊びを実践し、サンガーのところへもっとコンドームを送ってくれといってきた。
その発送を手伝ったのが加藤シヅエです。
宮崎 
妙に生々しい話ですが、それは何に書いてあるんですか。
高山 
そこまで露骨な書き方ではないけれど、1997年に産経新聞が出版した『20世紀特派員』という本の中に、「性の嵐」というタイトルで、大阪産経の女性記者が、サンガーと加藤シヅエとスメドレーの奇妙な関係を書いています。
宮崎 
スメドレーは誰とでも関係した。
たしかリヒャルト・ゾルゲとも関係があったでしょう。
高山 
尾崎秀実ともやっている。
その時に使ったのがサンガー印のコンドームだったんです(笑)。 
GHQは日本人という民族を消滅させるつもりだった。
中略
スキピオが出した降伏条約の中には、カルタゴの貴族たちの子弟は、全員をローマに留学させるというものもあった。
これも戦後の日本統治とまったく同じです。
宮崎 
似ていますね。フルブライト奨学金でしょう?
高山 
さらに農業化と言って、NHKに「新しい農村」というラジオ番組をつくらせた。
宮崎 
1963年からは「明るい農村」になる。
いまでも焼酎の銘柄で「晴耕雨読」というのがありますよ。 
高山 
日本は工業国だから、農業依存度はそんなに高くない。
農業人口は5%ぐらいじゃないですか。  
宮崎 
いまは1%ぐらいですが、第一次の漁業と林業も入れたら、もうちょっとあったと思うけれど。 
高山 
いま漁業は40万人。林業はほとんどゼロに近い。
農業も表向きは800万人と言っているけれど、農水省は年間に1時間働いても農民に数えています。
実質はもう200万人いるか、いないかです。 
僕が中学1年か2年だから、昭和31~2年で売春防止法は制定されたもののまだ施行されていなかったころですが、その時に全国共通の模擬テストがあって、農業人口は総人口の何パーセントかという問題が出た。
30%、15%、5%と三択があって、僕はそんなに多くないと思って5%と答えた。
そうしたら、僕だけが100点満点だったからよく覚えている。
農業人口はあの時でも5%だったんです。 
要するに農業国でもない日本に、NHKが「明るい農村」をラジオで放送していた。
RPO通信員とかなんとか、横文字の通信員がいて、小麦の収穫をレポートするという内容です。あのころは情報はラジオしかなかったからね。
宮崎 
もう一つ、キリスト教の「ルーテルアワー」とか。
そういうラジオ放送が堂々とあったんですから。
GHQは家族計画と優生保護法で日本の人口減少を画策した
宮崎
2019年の日本の出生数がついに90万の大台を切って、86万人にまで減少しました。
まさに日本消滅のために人口減らしをするというGHQのまいた種が、いまごろ咲いてきたということですね。
高山 
そうです。
加藤シヅエと社会党の陰謀というか、アメリカに踊らされたというか。
加藤シヅエを通して家族計画をやって、「一姫、二太郎」までで、それ以上は産ませないというアメリカの策謀が、戦後70年にして、やっと花開いた。 
昭和20年にそれまでの帝国議会に憲法草案を飲まさせて、翌21年4月の第一回男女普通選挙で、加藤シヅエを始め社会党や共産党員を大量に当選させて一気に平和憲法に変えさせた。
要するにGHQのお声がかりの人間を議会に送り込んで反対するやつはどんどんパージした。
宮崎 
レッドパージみたいですね。
高山 
レッドではなくて、あの時は保守パージ、大政翼賛会パージで、GHQの方針に従わないものは全部排除していった。
そして、あの平和憲法を通す。
さらに、いまの80万人台になった家族計画も盛り込まれていた。 

GHQの公衆衛生福祉局長クロフォード・サムスという陸軍軍医が中心になってサンガーを日本に何度も招いて、加藤シヅエと一緒に家族計画を遊説行脚させた。
要するに日本人に子供を産ませない政策です。 
そして、日本には大きな家屋敷は合わないと言って、小さなマッチ箱みたいな2DKの団地をつくらせて核家族化させる。
占領当初からどうやって日本の人口を減らすかと計画していた。 
インディアンが相手ならば、女と子供を殺せばよかった。
男だけならやがて滅んでしまう。
だから、サンドクリークの虐殺みたいに、男のいない留守に女子供を全部殺す。

これは旧約聖書に書かれているとおりの殺し方です。
しかし、戦争が終わった以上は公然とそうはできないから、日本の大家族制がよくない、核家族がいい、要らない子供は中絶していいというキャンペーンを張った。 
核家族になれば、小さな2DKで十分で、子供は一人かせいぜい二人がいいという価値観をずっと朝日新聞と加藤シヅエと社会党がリードしていったわけです。
宮崎 
なるほど。
日本のウサギ小屋のような団地というのは、アメリカの謀略だったんだ。

ウサギの住宅は小さくていいなどと吹聴して。 
昭和21年に引き揚げが始まってから、日本の出生数は年間270万人ぐらいあって、それが団塊の世代になる。
このベビーブーマーの出現を目撃して、アメリカは人口削減と言ったわけですか。
これは後知恵で出てきているんですか。
高山 
いや、GHQは進駐して来た早々に家族計画と言っていた。
GHQが加藤シヅエを担ぎ出したのは、昭和10年代に加藤シヅエが優生保護法の講演会を開いて、ヒットラーと同じようにだめな子は早くから去勢する、産まないようにするという活動をやっていたので、GHQは進駐直後から彼女に目をつけていた。
そういう意味では、「日本のカルタゴ化」を本当に計算ずくでやっていたんだと思う。 
昨年、旧優生保護法下で強制不妊手術を受けた被害者に一時金を支払う法律が成立して、安倍首相が被害者に謝罪していましたが、本当は社会党と朝日新聞が謝罪しないといけない。
なぜなら優生保護法も加藤シヅエが強力に運動して実現させた法律だったからです。 
加藤シヅエは日本のヒットラーですよ。
ドイツでもヒットラーが優勢保護政策をやっている。
それを加藤シヅエはGHQのバックアップでやった。
朝日新聞も一緒になってGHQの言うとおりだと報道した。
宮崎 
朝日は本当に題名を変えたらいいんだよね。
「赤い、赤い、真っ赤な朝日」ではなく、「アメリカ朝日」とかね。
後略。

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昨年、旧優生保護法下で強制不妊手術を受けた被害者に一時金を支払う法律が成立して、安倍首相が被害者に謝罪していましたが、本当は社会党と朝日新聞が謝罪しないといけない

2020年08月31日 18時30分10秒 | 全般

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之と世界有数の中国通である宮崎正弘が対談した下記の素晴らしい本からである。
この本は日本国民が今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない本である。
世界の人達にも必読の書であるが、それは私が出来るだけ伝える。 
前文省略
高山 
北朝鮮軍が、突然38度線を越えて、攻めてきた。
それまでは日本が支配していたから朝鮮半島は防衛の砦になっていた。
日本がいなくなったとたんに朝鮮半島は分断されて、半分は共産化してしまったわけです。 
日本人はキリスト教も嫌いだけど、共産党も嫌悪して警戒を怠らなかった。
それがアメリカにはさっぱりわかっていなかった。 
ダグラス・マッカーサーの部下だったウィリアム・シーボルドが『日本占領外交の回想』(朝日新聞社)という本に、日本にきたら政財官界の人と会うたびに「共産党を警戒するように」と言われたと書いています。
日本を占領したアメリカ人は当初、共産主義、コミュニストを別に警戒していなくて、昭和21(1946)年の第一回普通選挙の時には、共産党員を獄中から全員釈放して立候補させ当選までさせている。
宮崎 
宮本顕治も徳田球一もみんな解放した。
高山 
戦後第一回の総選挙は、GHQが本当に得票まで差配したいい加減な選挙だった。
女のセックスを男並みに解放しろという加藤シヅエも議会に送り込んだ。
まさにマッカーサー・チルドレンで、彼らによって、マッカーサー憲法を承認させた。
共産党のほか女性39人が当選した戦後第一回総選挙はすべてGHQが仕組んだやらせだったと思った方がいい。
宮崎 
全員通ったんですか。  
高山 
全員当選です。
加藤シヅエの記録を読むと、ある日、米軍の将校が来て、出馬を要請される。  
宮崎 
加藤シヅエの亭主は社会党政治家の加藤勘十ですね。  
高山 
なぜ加藤シヅエに白羽の矢が立ったのかというと、彼女は家族計画運動で産児制限の必要性を訴えていたアメリカのマーガレット・サンガーの一番弟子だったからです。  
日本を滅ぼすには、憲法で武器を持たせない、軍隊を持たせない、交戦権もなくす。
あと、国を亡ぼすには人口を減らすのが一番いいから、それで女の権利でコンドームをつけろと言って騒いだ。 
マーガレット・サンガーは「男だけが遊んでいる。女は遊ぶと身ごもってしまう。これは不公平だ」と言って、各種のコンドームやペッサリーをつくった女性です。
サンガーは女も遊べる世界にしようとしていた。 
アグネス・スメドレーも一緒でした。
男に弄ばれ、結婚すれば赤ん坊の面倒ばかり。
それが不満で亭主と子供を捨てて飛び出してきた女です。
スメドレーと加藤シブエはサンガーの下で一緒に女が遊べる社会づくりに励んだ。
スメドレーはそのあと上海に行きます。 
上海に行って、男遊びを実践し、サンガーのところへもっとコンドームを送ってくれといってきた。
その発送を手伝ったのが加藤シヅエです。
宮崎 
妙に生々しい話ですが、それは何に書いてあるんですか。
高山 
そこまで露骨な書き方ではないけれど、1997年に産経新聞が出版した『20世紀特派員』という本の中に、「性の嵐」というタイトルで、大阪産経の女性記者が、サンガーと加藤シヅエとスメドレーの奇妙な関係を書いています。
宮崎 
スメドレーは誰とでも関係した。
たしかリヒャルト・ゾルゲとも関係があったでしょう。
高山 
尾崎秀実ともやっている。
その時に使ったのがサンガー印のコンドームだったんです(笑)。 
GHQは日本人という民族を消滅させるつもりだった。
中略
スキピオが出した降伏条約の中には、カルタゴの貴族たちの子弟は、全員をローマに留学させるというものもあった。
これも戦後の日本統治とまったく同じです。
宮崎 
似ていますね。フルブライト奨学金でしょう?
高山 
さらに農業化と言って、NHKに「新しい農村」というラジオ番組をつくらせた。
宮崎 
1963年からは「明るい農村」になる。
いまでも焼酎の銘柄で「晴耕雨読」というのがありますよ。 
高山 
日本は工業国だから、農業依存度はそんなに高くない。
農業人口は5%ぐらいじゃないですか。  
宮崎 
いまは1%ぐらいですが、第一次の漁業と林業も入れたら、もうちょっとあったと思うけれど。 
高山 
いま漁業は40万人。林業はほとんどゼロに近い。
農業も表向きは800万人と言っているけれど、農水省は年間に1時間働いても農民に数えています。
実質はもう200万人いるか、いないかです。 
僕が中学1年か2年だから、昭和31~2年で売春防止法は制定されたもののまだ施行されていなかったころですが、その時に全国共通の模擬テストがあって、農業人口は総人口の何パーセントかという問題が出た。
30%、15%、5%と三択があって、僕はそんなに多くないと思って5%と答えた。
そうしたら、僕だけが100点満点だったからよく覚えている。
農業人口はあの時でも5%だったんです。 
要するに農業国でもない日本に、NHKが「明るい農村」をラジオで放送していた。
RPO通信員とかなんとか、横文字の通信員がいて、小麦の収穫をレポートするという内容です。あのころは情報はラジオしかなかったからね。
宮崎 
もう一つ、キリスト教の「ルーテルアワー」とか。
そういうラジオ放送が堂々とあったんですから。
GHQは家族計画と優生保護法で日本の人口減少を画策した
宮崎
2019年の日本の出生数がついに90万の大台を切って、86万人にまで減少しました。
まさに日本消滅のために人口減らしをするというGHQのまいた種が、いまごろ咲いてきたということですね。
高山 
そうです。
加藤シヅエと社会党の陰謀というか、アメリカに踊らされたというか。
加藤シヅエを通して家族計画をやって、「一姫、二太郎」までで、それ以上は産ませないというアメリカの策謀が、戦後70年にして、やっと花開いた。 
昭和20年にそれまでの帝国議会に憲法草案を飲まさせて、翌21年4月の第一回男女普通選挙で、加藤シヅエを始め社会党や共産党員を大量に当選させて一気に平和憲法に変えさせた。
要するにGHQのお声がかりの人間を議会に送り込んで反対するやつはどんどんパージした。
宮崎 
レッドパージみたいですね。
高山 
レッドではなくて、あの時は保守パージ、大政翼賛会パージで、GHQの方針に従わないものは全部排除していった。
そして、あの平和憲法を通す。
さらに、いまの80万人台になった家族計画も盛り込まれていた。 

GHQの公衆衛生福祉局長クロフォード・サムスという陸軍軍医が中心になってサンガーを日本に何度も招いて、加藤シヅエと一緒に家族計画を遊説行脚させた。
要するに日本人に子供を産ませない政策です。 
そして、日本には大きな家屋敷は合わないと言って、小さなマッチ箱みたいな2DKの団地をつくらせて核家族化させる。
占領当初からどうやって日本の人口を減らすかと計画していた。 
インディアンが相手ならば、女と子供を殺せばよかった。
男だけならやがて滅んでしまう。
だから、サンドクリークの虐殺みたいに、男のいない留守に女子供を全部殺す。

これは旧約聖書に書かれているとおりの殺し方です。
しかし、戦争が終わった以上は公然とそうはできないから、日本の大家族制がよくない、核家族がいい、要らない子供は中絶していいというキャンペーンを張った。 
核家族になれば、小さな2DKで十分で、子供は一人かせいぜい二人がいいという価値観をずっと朝日新聞と加藤シヅエと社会党がリードしていったわけです。
宮崎 
なるほど。
日本のウサギ小屋のような団地というのは、アメリカの謀略だったんだ。

ウサギの住宅は小さくていいなどと吹聴して。 
昭和21年に引き揚げが始まってから、日本の出生数は年間270万人ぐらいあって、それが団塊の世代になる。
このベビーブーマーの出現を目撃して、アメリカは人口削減と言ったわけですか。
これは後知恵で出てきているんですか。
高山 
いや、GHQは進駐して来た早々に家族計画と言っていた。
GHQが加藤シヅエを担ぎ出したのは、昭和10年代に加藤シヅエが優生保護法の講演会を開いて、ヒットラーと同じようにだめな子は早くから去勢する、産まないようにするという活動をやっていたので、GHQは進駐直後から彼女に目をつけていた。
そういう意味では、「日本のカルタゴ化」を本当に計算ずくでやっていたんだと思う。 
昨年、旧優生保護法下で強制不妊手術を受けた被害者に一時金を支払う法律が成立して、安倍首相が被害者に謝罪していましたが、本当は社会党と朝日新聞が謝罪しないといけない。
なぜなら優生保護法も加藤シヅエが強力に運動して実現させた法律だったからです。 
加藤シヅエは日本のヒットラーですよ。
ドイツでもヒットラーが優勢保護政策をやっている。
それを加藤シヅエはGHQのバックアップでやった。
朝日新聞も一緒になってGHQの言うとおりだと報道した。
宮崎 
朝日は本当に題名を変えたらいいんだよね。
「赤い、赤い、真っ赤な朝日」ではなく、「アメリカ朝日」とかね。
後略。

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農業人口はあの時でも5%だったんです。要するに農業国でもない日本に、NHKが「明るい農村」をラジオで放送していた。RPO通信員とかなんとか、横文字の通信員がいて

2020年08月31日 18時27分53秒 | 全般

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之と世界有数の中国通である宮崎正弘が対談した下記の素晴らしい本からである。
この本は日本国民が今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない本である。
世界の人達にも必読の書であるが、それは私が出来るだけ伝える。 
前文省略
高山 
北朝鮮軍が、突然38度線を越えて、攻めてきた。
それまでは日本が支配していたから朝鮮半島は防衛の砦になっていた。
日本がいなくなったとたんに朝鮮半島は分断されて、半分は共産化してしまったわけです。 
日本人はキリスト教も嫌いだけど、共産党も嫌悪して警戒を怠らなかった。
それがアメリカにはさっぱりわかっていなかった。 
ダグラス・マッカーサーの部下だったウィリアム・シーボルドが『日本占領外交の回想』(朝日新聞社)という本に、日本にきたら政財官界の人と会うたびに「共産党を警戒するように」と言われたと書いています。
日本を占領したアメリカ人は当初、共産主義、コミュニストを別に警戒していなくて、昭和21(1946)年の第一回普通選挙の時には、共産党員を獄中から全員釈放して立候補させ当選までさせている。
宮崎 
宮本顕治も徳田球一もみんな解放した。
高山 
戦後第一回の総選挙は、GHQが本当に得票まで差配したいい加減な選挙だった。
女のセックスを男並みに解放しろという加藤シヅエも議会に送り込んだ。
まさにマッカーサー・チルドレンで、彼らによって、マッカーサー憲法を承認させた。
共産党のほか女性39人が当選した戦後第一回総選挙はすべてGHQが仕組んだやらせだったと思った方がいい。
宮崎 
全員通ったんですか。  
高山 
全員当選です。
加藤シヅエの記録を読むと、ある日、米軍の将校が来て、出馬を要請される。  
宮崎 
加藤シヅエの亭主は社会党政治家の加藤勘十ですね。  
高山 
なぜ加藤シヅエに白羽の矢が立ったのかというと、彼女は家族計画運動で産児制限の必要性を訴えていたアメリカのマーガレット・サンガーの一番弟子だったからです。  
日本を滅ぼすには、憲法で武器を持たせない、軍隊を持たせない、交戦権もなくす。
あと、国を亡ぼすには人口を減らすのが一番いいから、それで女の権利でコンドームをつけろと言って騒いだ。 
マーガレット・サンガーは「男だけが遊んでいる。女は遊ぶと身ごもってしまう。これは不公平だ」と言って、各種のコンドームやペッサリーをつくった女性です。
サンガーは女も遊べる世界にしようとしていた。 
アグネス・スメドレーも一緒でした。
男に弄ばれ、結婚すれば赤ん坊の面倒ばかり。
それが不満で亭主と子供を捨てて飛び出してきた女です。
スメドレーと加藤シブエはサンガーの下で一緒に女が遊べる社会づくりに励んだ。
スメドレーはそのあと上海に行きます。 
上海に行って、男遊びを実践し、サンガーのところへもっとコンドームを送ってくれといってきた。
その発送を手伝ったのが加藤シヅエです。
宮崎 
妙に生々しい話ですが、それは何に書いてあるんですか。
高山 
そこまで露骨な書き方ではないけれど、1997年に産経新聞が出版した『20世紀特派員』という本の中に、「性の嵐」というタイトルで、大阪産経の女性記者が、サンガーと加藤シヅエとスメドレーの奇妙な関係を書いています。
宮崎 
スメドレーは誰とでも関係した。
たしかリヒャルト・ゾルゲとも関係があったでしょう。
高山 
尾崎秀実ともやっている。
その時に使ったのがサンガー印のコンドームだったんです(笑)。 
GHQは日本人という民族を消滅させるつもりだった。
中略
スキピオが出した降伏条約の中には、カルタゴの貴族たちの子弟は、全員をローマに留学させるというものもあった。
これも戦後の日本統治とまったく同じです。
宮崎 
似ていますね。フルブライト奨学金でしょう?
高山 
さらに農業化と言って、NHKに「新しい農村」というラジオ番組をつくらせた。
宮崎 
1963年からは「明るい農村」になる。
いまでも焼酎の銘柄で「晴耕雨読」というのがありますよ。 
高山 
日本は工業国だから、農業依存度はそんなに高くない。
農業人口は5%ぐらいじゃないですか。  
宮崎 
いまは1%ぐらいですが、第一次の漁業と林業も入れたら、もうちょっとあったと思うけれど。 
高山 
いま漁業は40万人。林業はほとんどゼロに近い。
農業も表向きは800万人と言っているけれど、農水省は年間に1時間働いても農民に数えています。
実質はもう200万人いるか、いないかです。 
僕が中学1年か2年だから、昭和31~2年で売春防止法は制定されたもののまだ施行されていなかったころですが、その時に全国共通の模擬テストがあって、農業人口は総人口の何パーセントかという問題が出た。
30%、15%、5%と三択があって、僕はそんなに多くないと思って5%と答えた。
そうしたら、僕だけが100点満点だったからよく覚えている。
農業人口はあの時でも5%だったんです。 
要するに農業国でもない日本に、NHKが「明るい農村」をラジオで放送していた。
RPO通信員とかなんとか、横文字の通信員がいて、小麦の収穫をレポートするという内容です。あのころは情報はラジオしかなかったからね。
宮崎 
もう一つ、キリスト教の「ルーテルアワー」とか。
そういうラジオ放送が堂々とあったんですから。
GHQは家族計画と優生保護法で日本の人口減少を画策した
宮崎
2019年の日本の出生数がついに90万の大台を切って、86万人にまで減少しました。
まさに日本消滅のために人口減らしをするというGHQのまいた種が、いまごろ咲いてきたということですね。
高山 
そうです。
加藤シヅエと社会党の陰謀というか、アメリカに踊らされたというか。
加藤シヅエを通して家族計画をやって、「一姫、二太郎」までで、それ以上は産ませないというアメリカの策謀が、戦後70年にして、やっと花開いた。 
昭和20年にそれまでの帝国議会に憲法草案を飲まさせて、翌21年4月の第一回男女普通選挙で、加藤シヅエを始め社会党や共産党員を大量に当選させて一気に平和憲法に変えさせた。
要するにGHQのお声がかりの人間を議会に送り込んで反対するやつはどんどんパージした。
宮崎 
レッドパージみたいですね。
高山 
レッドではなくて、あの時は保守パージ、大政翼賛会パージで、GHQの方針に従わないものは全部排除していった。
そして、あの平和憲法を通す。
さらに、いまの80万人台になった家族計画も盛り込まれていた。 

GHQの公衆衛生福祉局長クロフォード・サムスという陸軍軍医が中心になってサンガーを日本に何度も招いて、加藤シヅエと一緒に家族計画を遊説行脚させた。
要するに日本人に子供を産ませない政策です。 
そして、日本には大きな家屋敷は合わないと言って、小さなマッチ箱みたいな2DKの団地をつくらせて核家族化させる。
占領当初からどうやって日本の人口を減らすかと計画していた。 
インディアンが相手ならば、女と子供を殺せばよかった。
男だけならやがて滅んでしまう。
だから、サンドクリークの虐殺みたいに、男のいない留守に女子供を全部殺す。

これは旧約聖書に書かれているとおりの殺し方です。
しかし、戦争が終わった以上は公然とそうはできないから、日本の大家族制がよくない、核家族がいい、要らない子供は中絶していいというキャンペーンを張った。 
核家族になれば、小さな2DKで十分で、子供は一人かせいぜい二人がいいという価値観をずっと朝日新聞と加藤シヅエと社会党がリードしていったわけです。
宮崎 
なるほど。
日本のウサギ小屋のような団地というのは、アメリカの謀略だったんだ。

ウサギの住宅は小さくていいなどと吹聴して。 
昭和21年に引き揚げが始まってから、日本の出生数は年間270万人ぐらいあって、それが団塊の世代になる。
このベビーブーマーの出現を目撃して、アメリカは人口削減と言ったわけですか。
これは後知恵で出てきているんですか。
高山 
いや、GHQは進駐して来た早々に家族計画と言っていた。
GHQが加藤シヅエを担ぎ出したのは、昭和10年代に加藤シヅエが優生保護法の講演会を開いて、ヒットラーと同じようにだめな子は早くから去勢する、産まないようにするという活動をやっていたので、GHQは進駐直後から彼女に目をつけていた。
そういう意味では、「日本のカルタゴ化」を本当に計算ずくでやっていたんだと思う。 
昨年、旧優生保護法下で強制不妊手術を受けた被害者に一時金を支払う法律が成立して、安倍首相が被害者に謝罪していましたが、本当は社会党と朝日新聞が謝罪しないといけない。
なぜなら優生保護法も加藤シヅエが強力に運動して実現させた法律だったからです。 
加藤シヅエは日本のヒットラーですよ。
ドイツでもヒットラーが優勢保護政策をやっている。
それを加藤シヅエはGHQのバックアップでやった。
朝日新聞も一緒になってGHQの言うとおりだと報道した。
宮崎 
朝日は本当に題名を変えたらいいんだよね。
「赤い、赤い、真っ赤な朝日」ではなく、「アメリカ朝日」とかね。
後略。

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戦後第一回の総選挙は、GHQが本当に得票まで差配したいい加減な選挙…加藤シヅエも…マッカーサー・チルドレンで、彼らによって、マッカーサー憲法を承認させた

2020年08月31日 18時26分22秒 | 全般

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之と世界有数の中国通である宮崎正弘が対談した下記の素晴らしい本からである。
この本は日本国民が今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない本である。
世界の人達にも必読の書であるが、それは私が出来るだけ伝える。 
前文省略
高山 
北朝鮮軍が、突然38度線を越えて、攻めてきた。
それまでは日本が支配していたから朝鮮半島は防衛の砦になっていた。
日本がいなくなったとたんに朝鮮半島は分断されて、半分は共産化してしまったわけです。 
日本人はキリスト教も嫌いだけど、共産党も嫌悪して警戒を怠らなかった。
それがアメリカにはさっぱりわかっていなかった。 
ダグラス・マッカーサーの部下だったウィリアム・シーボルドが『日本占領外交の回想』(朝日新聞社)という本に、日本にきたら政財官界の人と会うたびに「共産党を警戒するように」と言われたと書いています。
日本を占領したアメリカ人は当初、共産主義、コミュニストを別に警戒していなくて、昭和21(1946)年の第一回普通選挙の時には、共産党員を獄中から全員釈放して立候補させ当選までさせている。
宮崎 
宮本顕治も徳田球一もみんな解放した。
高山 
戦後第一回の総選挙は、GHQが本当に得票まで差配したいい加減な選挙だった。
女のセックスを男並みに解放しろという加藤シヅエも議会に送り込んだ。
まさにマッカーサー・チルドレンで、彼らによって、マッカーサー憲法を承認させた。
共産党のほか女性39人が当選した戦後第一回総選挙はすべてGHQが仕組んだやらせだったと思った方がいい。
宮崎 
全員通ったんですか。  
高山 
全員当選です。
加藤シヅエの記録を読むと、ある日、米軍の将校が来て、出馬を要請される。  
宮崎 
加藤シヅエの亭主は社会党政治家の加藤勘十ですね。  
高山 
なぜ加藤シヅエに白羽の矢が立ったのかというと、彼女は家族計画運動で産児制限の必要性を訴えていたアメリカのマーガレット・サンガーの一番弟子だったからです。  
日本を滅ぼすには、憲法で武器を持たせない、軍隊を持たせない、交戦権もなくす。
あと、国を亡ぼすには人口を減らすのが一番いいから、それで女の権利でコンドームをつけろと言って騒いだ。 
マーガレット・サンガーは「男だけが遊んでいる。女は遊ぶと身ごもってしまう。これは不公平だ」と言って、各種のコンドームやペッサリーをつくった女性です。
サンガーは女も遊べる世界にしようとしていた。 
アグネス・スメドレーも一緒でした。
男に弄ばれ、結婚すれば赤ん坊の面倒ばかり。
それが不満で亭主と子供を捨てて飛び出してきた女です。
スメドレーと加藤シブエはサンガーの下で一緒に女が遊べる社会づくりに励んだ。
スメドレーはそのあと上海に行きます。 
上海に行って、男遊びを実践し、サンガーのところへもっとコンドームを送ってくれといってきた。
その発送を手伝ったのが加藤シヅエです。
宮崎 
妙に生々しい話ですが、それは何に書いてあるんですか。
高山 
そこまで露骨な書き方ではないけれど、1997年に産経新聞が出版した『20世紀特派員』という本の中に、「性の嵐」というタイトルで、大阪産経の女性記者が、サンガーと加藤シヅエとスメドレーの奇妙な関係を書いています。
宮崎 
スメドレーは誰とでも関係した。
たしかリヒャルト・ゾルゲとも関係があったでしょう。
高山 
尾崎秀実ともやっている。
その時に使ったのがサンガー印のコンドームだったんです(笑)。 
GHQは日本人という民族を消滅させるつもりだった。
中略
スキピオが出した降伏条約の中には、カルタゴの貴族たちの子弟は、全員をローマに留学させるというものもあった。
これも戦後の日本統治とまったく同じです。
宮崎 
似ていますね。フルブライト奨学金でしょう?
高山 
さらに農業化と言って、NHKに「新しい農村」というラジオ番組をつくらせた。
宮崎 
1963年からは「明るい農村」になる。
いまでも焼酎の銘柄で「晴耕雨読」というのがありますよ。 
高山 
日本は工業国だから、農業依存度はそんなに高くない。
農業人口は5%ぐらいじゃないですか。  
宮崎 
いまは1%ぐらいですが、第一次の漁業と林業も入れたら、もうちょっとあったと思うけれど。 
高山 
いま漁業は40万人。林業はほとんどゼロに近い。
農業も表向きは800万人と言っているけれど、農水省は年間に1時間働いても農民に数えています。
実質はもう200万人いるか、いないかです。 
僕が中学1年か2年だから、昭和31~2年で売春防止法は制定されたもののまだ施行されていなかったころですが、その時に全国共通の模擬テストがあって、農業人口は総人口の何パーセントかという問題が出た。
30%、15%、5%と三択があって、僕はそんなに多くないと思って5%と答えた。
そうしたら、僕だけが100点満点だったからよく覚えている。
農業人口はあの時でも5%だったんです。 
要するに農業国でもない日本に、NHKが「明るい農村」をラジオで放送していた。
RPO通信員とかなんとか、横文字の通信員がいて、小麦の収穫をレポートするという内容です。あのころは情報はラジオしかなかったからね。
宮崎 
もう一つ、キリスト教の「ルーテルアワー」とか。
そういうラジオ放送が堂々とあったんですから。
GHQは家族計画と優生保護法で日本の人口減少を画策した
宮崎
2019年の日本の出生数がついに90万の大台を切って、86万人にまで減少しました。
まさに日本消滅のために人口減らしをするというGHQのまいた種が、いまごろ咲いてきたということですね。
高山 
そうです。
加藤シヅエと社会党の陰謀というか、アメリカに踊らされたというか。
加藤シヅエを通して家族計画をやって、「一姫、二太郎」までで、それ以上は産ませないというアメリカの策謀が、戦後70年にして、やっと花開いた。 
昭和20年にそれまでの帝国議会に憲法草案を飲まさせて、翌21年4月の第一回男女普通選挙で、加藤シヅエを始め社会党や共産党員を大量に当選させて一気に平和憲法に変えさせた。
要するにGHQのお声がかりの人間を議会に送り込んで反対するやつはどんどんパージした。
宮崎 
レッドパージみたいですね。
高山 
レッドではなくて、あの時は保守パージ、大政翼賛会パージで、GHQの方針に従わないものは全部排除していった。
そして、あの平和憲法を通す。
さらに、いまの80万人台になった家族計画も盛り込まれていた。 

GHQの公衆衛生福祉局長クロフォード・サムスという陸軍軍医が中心になってサンガーを日本に何度も招いて、加藤シヅエと一緒に家族計画を遊説行脚させた。
要するに日本人に子供を産ませない政策です。 
そして、日本には大きな家屋敷は合わないと言って、小さなマッチ箱みたいな2DKの団地をつくらせて核家族化させる。
占領当初からどうやって日本の人口を減らすかと計画していた。 
インディアンが相手ならば、女と子供を殺せばよかった。
男だけならやがて滅んでしまう。
だから、サンドクリークの虐殺みたいに、男のいない留守に女子供を全部殺す。

これは旧約聖書に書かれているとおりの殺し方です。
しかし、戦争が終わった以上は公然とそうはできないから、日本の大家族制がよくない、核家族がいい、要らない子供は中絶していいというキャンペーンを張った。 
核家族になれば、小さな2DKで十分で、子供は一人かせいぜい二人がいいという価値観をずっと朝日新聞と加藤シヅエと社会党がリードしていったわけです。
宮崎 
なるほど。
日本のウサギ小屋のような団地というのは、アメリカの謀略だったんだ。

ウサギの住宅は小さくていいなどと吹聴して。 
昭和21年に引き揚げが始まってから、日本の出生数は年間270万人ぐらいあって、それが団塊の世代になる。
このベビーブーマーの出現を目撃して、アメリカは人口削減と言ったわけですか。
これは後知恵で出てきているんですか。
高山 
いや、GHQは進駐して来た早々に家族計画と言っていた。
GHQが加藤シヅエを担ぎ出したのは、昭和10年代に加藤シヅエが優生保護法の講演会を開いて、ヒットラーと同じようにだめな子は早くから去勢する、産まないようにするという活動をやっていたので、GHQは進駐直後から彼女に目をつけていた。
そういう意味では、「日本のカルタゴ化」を本当に計算ずくでやっていたんだと思う。 
昨年、旧優生保護法下で強制不妊手術を受けた被害者に一時金を支払う法律が成立して、安倍首相が被害者に謝罪していましたが、本当は社会党と朝日新聞が謝罪しないといけない。
なぜなら優生保護法も加藤シヅエが強力に運動して実現させた法律だったからです。 
加藤シヅエは日本のヒットラーですよ。
ドイツでもヒットラーが優勢保護政策をやっている。
それを加藤シヅエはGHQのバックアップでやった。
朝日新聞も一緒になってGHQの言うとおりだと報道した。
宮崎 
朝日は本当に題名を変えたらいいんだよね。
「赤い、赤い、真っ赤な朝日」ではなく、「アメリカ朝日」とかね。
後略。

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Det var et papir jeg oppdaget forleden da jeg lette etter noe.

2020年08月31日 17時36分08秒 | 全般

Det følgende er en fortsettelse av forrige kapittel.
Dette kapittelet avslører også hvorfor Kina har holdt historien om Wuhan-viruset hemmelig.
NHK og resten av japanske medier nekter å komme til bunns i saken ved å bli disiplinert av Kina, og avslører hvor tåpelig og ekkelt det er.
De er de mest dumme og dårlige menneskene som ikke engang er kvalifiserte til å diskutere sannheten i saken.
Nanking-massakren
Det er gjort mye forskning om Nanking Massacre-spørsmålet, men det er ikke tid til å gå inn på alt dette her.
Imidlertid vil jeg påpeke at kineserne har en tankegang om "unngåelse" (skjule eller unngå), som også har kastet en skygge over Nanking-massakren.
I Kina er ansiktet viktigere enn sannheten.
Derfor må alt som er skadelig for nasjonen og dens familier skjules grundig, selv om det betyr å bøye fakta.
Å lyve for det formålet er ikke bare en etisk korrekt handling; det er til og med en plikt.
Det aktuelle spørsmålet er hendelsen i 1937, i løpet av de første årene av den andre kinesisk-japanske krigen da japanerne angrep og okkuperte byen Nanking, de kinesiske troppene tok av seg uniformene, frarøvet sivile klærne og ble gerilja, krigsfanger, og massakrerte sivile i stort antall.
Siden Chiang Kai-shek trakk seg tilbake tidlig 7. desember hadde den kinesiske hærens kommandovei kollapset, og organisert overgivelse virket umulig.
Mange kinesiske soldater igjen i og utenfor Nanjing City tok av seg uniformene, frarøvet sivile klærne, ble geriljaer og prøvde å rømme.
I henhold til internasjonal lov hadde slike gerilja ikke rett til å inngå seg som soldater og hadde ikke rett til behandling av krigsfanger hvis de overga seg.
Som et eksempel på det faktum at begge sider ikke kan eksistere som nevnt i delen "Bevis ved motsetning" i forrige område, er noen eksempler vist nedenfor, merket med en stjerne.
☆ Cirka 150 journalister og kameraoperatører fulgte den japanske hæren på tidspunktet da Nanking falt.
Ingen av dem var imidlertid vitne til en slik massakre.
Det er bare rapporter med bilder av japanske tropper som distribuerer mat og andre ting til Nanjing-borgere, og innbyggerne er glade for å se det.
Medfølgende journalister er: inkludert japanske journalister, Reuters, AP og andre vestlige journalister.
Det var også et filmteam fra U.S. Paramount News som dokumenterte Nankings okkupasjon, og en reporter fra North China Daily News, en britisk engelskspråklig avis.
Ingen av dem rapporterte imidlertid om massakren.
I stedet ble det eneste rapporterte synet av japanske tropper som distribuerte mat og andre forsyninger til innbyggerne i Nanking, med bilder av folket i Nanking som gledet seg.
Mr. Yoshio Kanazawa, en kameramann fra Tokyo Nichi Nichi Shimbun, vitnet også: 'Jeg har gått rundt i Nanking, og jeg har aldri sett en massakre.'
Asahi Shimbun bar også et fotografi av slottet under tittelen "Nanjing gjenoppliver fred."
☆ Regimet til president Wang Chao-Ming (王 精衛), som ble dannet to år etter den japanske invasjonen av Nanjing, har heller ikke nevnt massakren i Nanjing.
Hvis massakren faktisk hadde funnet sted, ville regimet ha gjort dette kjent for verden, men dette var aldri tilfelle.
☆ Rapporten sendt av visekonsul James Espy fra det amerikanske konsulatet i Nanjing den gang til den amerikanske ambassadøren Nelson Johnson nevnte ingen slik massakre.
Siden USA hadde vært anti-japansk siden den gang, ville det ikke ha vært noen utsmykning for å dekke over det faktum.
☆ I den "generelle oversikten over internasjonale propagandaaktiviteter i den sentrale propagandadepartementet" (1941) av det kinesiske nasjonalistpartiet, ble det ikke nevnt noen sivile massakre og massakren på krigsfanger av den japanske hæren.
☆ På pressekonferansene som ble holdt nesten daglig av Central Propaganda Department of the Chinese Nationalist Party, ble ikke Nanking-massakren engang nevnt.
☆ I hundrevis av pressekonferanser holdt Chiang Kai-shek med utenlandske journalister, ble det ikke nevnt noe om Nanking-massakren.
Tallet på 300 000 ofre ble nevnt i Tokyo Tribunal, men det er en ubegrunnet og overdrevet figur.
Til og med "History of the Pacific War", publisert av GHQ i japansk avis etter krigen, skrev tallet på 20.000.
300 000 er sammenlignbart med antall dødsfall som følge av atombombene i Hiroshima og Nagasaki.
Arbeidet med å avhende kroppene og papirene alene er ikke et nummer som kan håndteres uten å bli registrert.
* Haruki Murakami skrev at tallet ikke var 300.000, kanskje mer *.

Tallrike bøker og memoarer fylt med et masochistisk historiens syn er blitt publisert om denne hendelsen fra den japanske siden, som alle fungerer som dokumenter for Japans kinesiske angrep.
Professor Tomio Hora fra Waseda University ga dem, Asahi Shimbun-reporter Honda Katsuichi, professor Ienaga Saburo fra Tokyo University of Education, tidligere soldat Tadokoro Kozo, tidligere soldat Sone Hajime og Matsuoka Tamaki.
Det er fra Hvordan Japan konfronterer Kina, av Shoichi Watanabe, WAC, 2013.
Side 266
Hora Tomio: Professor ved Waseda University, invitert til Kina i 1966 og fikk det han kalte Nanking Massacre data. Basert på dette materialet publiserte han en serie bøker, inkludert The Nanjing Massacre, Second Sino-Japanese Historical Material, and Second Sino-Japanese Material on the Nanking Atrocities Massacre, etc .. Han hevdet at Nanking-massakren var et historisk faktum.
Honda Katsuichi: Asahi Shimbun-reporter; reiste rundt Kina i 1971 i omtrent 40 dager for å dekke massakren.
Saburo Ienaga: Professor ved Tokyo University of Education. I tillegg til å skrive i lærebøker som om Nanking-massakren var et historisk faktum, anla han en søksmål med påstand om at selve lærebokssertifiseringssystemet var grunnlovsstridig, noe som førte til den lange Ienaga Textbook Trial, som startet i 1965.
Kozo Tadokoro: Selv om han tilsto å ha begått drap og voldtekt seg over en periode på omtrent ti dager etter Nankings fall, påpekte forskning av professor Tadao Takemoto fra Tsukuba University og professor Yasuo Ohara fra Kokugakuin University at denne mannen ikke kunne ha vært i Nanking i ti dager fordi enheten han tilhørte ble overført fra Nanking to dager etter fallet.
Senere tilsto han at en reporter spurte om han hadde noe interessant å si, så han snakket bare om ting som aldri skjedde.
Forresten er hans ord i The Rape of Nanjing av Iris Chang ...

Det var et papir jeg oppdaget forleden da jeg lette etter noe.
Denne artikkelen og forfatteren var helt ny for meg.
Jeg var lettet over å vite at forfatteren var utdannet ved University of Tokyos fakultet for økonomi og et aktivt medlem av ITOCHU Corporation, i tillegg til fortreffeligheten i hans papir.
Etter at jeg kom inn i arbeidsstokken, møtte jeg to av mine beste venner for livet.
De var begge ansatte i ITOCHU Corporation.
De var begge ekstremt talentfulle forretningsmenn, og derfor hadde de begge kritiske posisjoner i selskapet.
De siste årene har selskapets navn dukket opp i diskursen sammen med Uichiro Niwa sine pro-Kina-uttalelser, noe som har gjort at jeg følte meg ukomfortabel.
Jeg følte at styrken til et handelsselskap ligger i det faktum at alle ansatte er på en måte en leder for en liten bedrift.
Evnen til å se på kundenes balanse og umiddelbart forstå selskapets tilstand var forbløffende.
Han kan også sjekke alle detaljer i et stort byggepris og bestemme prisens hensiktsmessighet, noe som til og med Japans ledende hovedentreprenører ville være forferdet.
Jeg følte at deres styrke var treenigheten av intelligens, kraft og energi som utgjorde Japans styrke.
Bedriftsmeldingen til ITOCHU Corporation, "Én kjøpmann, et utall oppdrag", henger på baksiden av Jingu Stadium, Yakults hjemmefelt, og jeg trodde alltid at det var helt riktig når jeg så det.
Forfatteren av åpningsavsnittet, Mr. Takehiko Aoyagi, har en kort biografi.
Han var tidligere professor ved det internasjonale universitetet i Japan.
Han ble født i Kiryu City, Gunma Prefecture, i 1934. Han ble uteksaminert fra Kiryu Prefectural Kiryu High School.
Han ble uteksaminert fra University of Tokyo Fakultet for økonomi i 1958 og begynte i Itochu Corporation.
Han fungerte som daglig leder for matvareavdelingen i Sydney-avdelingen til ITOCHU Corporation, daglig leder for landbruksavdelingen ved hovedkontoret til ITOCHU Corporation. Som direktør i ITOCHU Systems Development Corporation.
Fra 1985 til 1997 var han president og styreleder i Nippon Telematique, et fellessatsning mellom ITOCHU og NTT.
Fra 1995 til 2006 var han nestleder og professor ved International University of Japan GLOBECOM, og fra 2006 til 2016 var han gjesteprofessor ved samme universitet.
Hans forskningsområder inkluderer økonomi, forretningsadministrasjon, finans, informasjonssamfunn, jus, internasjonal politikk og sikkerhetsteori, og han er en selvutnevnt generalist innen samfunnsvitenskap.
Han er forfatteren av "Videtex Strategy" (Informasjonsvitenskap), "Cyber ​​Surveillance Society" (The Telecommunications Advancement Association), "Personlig informasjon Overbeskyttelse ødelegger Japan" (Softbank Shinsho), "Privacy Research in the Information Age" (NTT Publishing) , "Roosevelt forrådte det amerikanske folk og slepte Japan inn i krig" (Heart Publishing), "The History of Japan Twisted by America to Psychologically Disarming the Japanese" (Heart Publishing), og mange andre.
Jeg snublet over et papir av Aoyanagi som vant en utmerkelsespris i APA-gruppens syvende årlige "True View of Modern History" -konkurranseoppgave.
Det er en må-lese for folket i Japan og resten av verden.
Utallige passasjer beskriver perfekt Arimas hjernestruktur og NHK-ansatte som kontrollerer NHK / Watch 9, som jeg syntes virkelig var unnskyldelig den andre natten.
Hvorfor japanerne så raskt har falt byttedyr for WGIP
For det første, fordi WGIP var smart skjult og henrettet i hemmelighet, visste japanerne ikke engang at hjernevaskeprogrammet eksisterte.
USA introduserte ideen om demokrati på en stor måte, så den tok en sentral plass i Japans ideologi og utdanningsfilosofi etter krigen.
Aldri i deres villeste drømmer innså det japanske folket at GHQ, hovedkvarteret, fremmet hjernevask ved å nekte "ytringsfrihet".
For det andre var mye av det GHQ forplantet krigstid, og siden all militærhistorie ble ødelagt, hadde japanerne ingen måte å verifisere sannheten.
Av denne grunn trodde det japanske folket uten tvil at militaristene løy og lurte publikum.
For det tredje har nesten alle akademikerne japanerne stoler på ukritisk og uforbeholdent akseptert Tokyo Trials 'historie og har til og med publisert artikler og bøker som aktivt støtter dette synet, og bidrar til forvirringen.
Spesielt støttet betydelige historikere Tokyo Tribunals syn på historien og publiserte en serie studier som så på hele Japans fortid i et negativt lys.
Mange av studentene som ble undervist av disse lærde, ble lærere og lærte barna sine en masochistisk syn på historien.
Dette synet på historien til Tokyo-prøvene ble innprentet i den yngre generasjonen gjennom historisk utdannelse.

I sin bok går Nagahara Keiji, professor emeritus ved Hitotsubashi University, styreleder for Society for Historical Research, så langt som å si at «Japansk historie ble lært opp til å se historien riktig av Tokyo-prøvelsene.
Realiteten er at det historiske akademiet, med noen få unntak, fremdeles er forankret i sin støtte til det historiske synet på Tokyo-prøvene.
De eneste menneskene som argumenterer for en riktig forståelse av historien, er forskere som ikke har noen forbindelse til historiens verden.
Watanabe Shoichi, en kritiker og engelsk språkforsker; Kō Bun'yū, historiker av vestlig økonomi; Nishio Kanji, tysk litteratur; Hasegawa Michiko, filosof; Nakamura Akira, engelsk litteratur; Sakurai Yoshiko, journalist; Ushio Masato, tidligere offiser for luftforsvarsforsvaret; Kobori Keiichiro, tysk og komparativ litteratur; Nakanishi Terumasa, europeisk diplomatisk historie og internasjonal politikk; Fujiwara Masahiko, matematiker og essayist, og listen fortsetter og fortsetter.
Alle er engasjert i et bredt spekter av store intellektuelle aktiviteter som går utover titlene deres.
Det samme gjelder juridisk akademi.
Tokyo Trials 'substans var at de var ulovlige lynsjinger av seirende makter, og til og med de allierte var usikre på deres gyldighet.
Imidlertid hevdet professor Kizaburo Yokota, professor i internasjonal rett ved Tokyo Imperial Universitys juridiske fakultet og ansett å være en av verdens ledende internasjonale lovmyndigheter, overraskende at Tokyo Tribunal var legitim.
Han skrev The War Crimes, hvor han ukritisk aksepterte Tokyo Tribunal 's historiske perspektiv og uttalte at "det er ingen tvil i mitt sinn om at det er en sterk intensjon blant nesten alle nasjoner om å betrakte aggresjonskrigen som en internasjonal forbrytelse."
Mange andre juridiske lærde på den tiden fulgte etter som et skred, noe som gjorde kraften til WGIP enorm.
Fortsettelse følger.

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Der var et papir, jeg opdagede forleden, da jeg søgte efter noget.

2020年08月31日 17時33分56秒 | 全般

Det følgende er en fortsættelse af det foregående kapitel.
Dette kapitel afslører også, hvorfor Kina har holdt historien om Wuhan-virusen hemmelig.
NHK og resten af ​​de japanske medier nægter at komme til bunds i sagen ved at blive disciplineret af Kina og afsløre, hvor dumt og modbydeligt det er.
De er de mest dumme og dårlige mennesker, der ikke engang er kvalificerede til at diskutere sagens sandhed.
Den nankende massakre
Der er foretaget meget forskning i Nanking Massacre-spørgsmålet, men der er ikke tid til at gå ind på det hele her.
Imidlertid vil jeg påpege, at kineserne har en tankegang om "undgåelse" (skjule eller undgå), som også har kastet en skygge over Nanking-massakren.
I Kina er ansigtet vigtigere end sandheden.
Derfor skal alt, der er skadeligt for nationen og dens familier, skjules grundigt, selvom det betyder at bøje fakta.
At lyve til dette formål er ikke kun en etisk korrekt handling; det er endda en pligt.
Det drejer sig om hændelsen i 1937 i de første år af den anden kinesisk-japanske krig, da japanerne angreb og besatte byen Nanking, de kinesiske tropper tog deres uniformer af, frarøvede civile deres tøj og blev guerillaer, krigsfanger og massakrerede civile i stort antal.
Da Chiang Kai-shek trak sig tilbage tidligt den 7. december, var den kinesiske hærs kommandokæde kollapset, og organiseret overgivelse syntes umulig.
Mange kinesiske soldater efterladt inden i og uden for Nanjing City tog deres uniformer af, frarøvede civile deres tøj, blev guerillaer og forsøgte at flygte.
I henhold til international lov havde sådanne guerillaer ikke ret til at engagere sig som soldater og havde ikke ret til behandling af krigsfanger, hvis de overgav sig.
Som et eksempel på, at begge sider ikke kan eksistere som nævnt i afsnittet "Bevis ved modsigelse" i det foregående område, er nogle eksempler vist nedenfor markeret med en stjerne.
☆ Omkring 150 journalister og kameraoperatører fulgte den japanske hær på tidspunktet for Nankings fald.
Imidlertid var ingen af ​​dem vidne til en sådan massakre.
Der er kun rapporter med billeder af japanske tropper, der distribuerer mad og andre genstande til Nanjing-borgere, og borgerne er glade for at se det.
Ledsagende journalister er: inklusive japanske journalister, Reuters, AP og andre vestlige journalister.
Der var også et filmhold fra U.S. Paramount News, der dokumenterede Nankings besættelse, og en reporter fra North China Daily News, en britisk engelsksproget avis.
Ingen af ​​dem rapporterede dog om massakren.
I stedet for var det eneste, der blev rapporteret, synet af japanske tropper, der distribuerede mad og andre forsyninger til borgerne i Nanking, med billeder af Nankings folk glædede sig.
Mr. Yoshio Kanazawa, en kameramand fra Tokyo Nichi Nichi Shimbun, vidnede også: 'Jeg har gået rundt i Nanking, og jeg har aldrig set en massakre.'
Asahi Shimbun bar også et fotografi af slottet under titlen "Nanjing genopliver fred."
☆ Regimet for præsident Wang Chao-Ming (王 精衛), der blev dannet to år efter den japanske invasion af Nanjing, har heller ikke nævnt massakren i Nanjing.
Hvis massakren faktisk havde fundet sted, ville regimet have gjort dette kendt for verden, men det var aldrig tilfældet.
☆ Rapporten sendt af vicekonsul James Espy fra det amerikanske konsulat i Nanjing på det tidspunkt til den amerikanske ambassadør Nelson Johnson nævnte ikke en sådan massakre.
Da USA havde været anti-japansk siden da, ville der ikke have været nogen udsmykning for at dække over det faktum.
☆ I "Det kinesiske nationalistiske partis" generelle oversigt over internationale propagandaaktiviteter i det centrale propagandadepartement "(1941) var der ingen omtale af civils massakre og massakren på krigsfanger af den japanske hær.
☆ På pressekonferencerne næsten dagligt af det kinesiske nationalistpartis centrale propagandadepartement blev Nanking-massakren ikke engang nævnt.
☆ I hundreder af pressekonferencer afholdt af Chiang Kai-shek med udenlandske journalister var der ingen omtale af Nanking-massakren.
Tallet på 300.000 ofre blev nævnt i Tokyo Tribunal, men det er en ubegrundet og overdrevet figur.
Selv "History of the Pacific War", udgivet af GHQ i japansk avis efter krigen, skrev tallet til 20.000.
300.000 kan sammenlignes med antallet af dødsfald som følge af atombomberne i Hiroshima og Nagasaki.
Arbejdet med at bortskaffe ligene og papirarbejdet alene er ikke et nummer, der kunne håndteres uden at blive registreret.
* Haruki Murakami skrev, at antallet ikke var 300.000, måske mere *.

Talrige bøger og erindringer fyldt med en masochistisk syn på historien er blevet offentliggjort om denne hændelse fra den japanske side, som alle fungerer som dokumenter for Japans kinesiske angreb.
Professor Tomio Hora fra Waseda University stillede dem til rådighed, Asahi Shimbun-reporter Honda Katsuichi, professor Ienaga Saburo fra Tokyo University of Education, den tidligere soldat Tadokoro Kozo, den tidligere soldat Sone Hajime og Matsuoka Tamaki.
Det er fra Hvordan Japan konfronterer Kina af Shoichi Watanabe, WAC, 2013.
Opslag 266
Hora Tomio: Professor ved Waseda-universitetet, inviteret til Kina i 1966 og fik forsynet med det, han kaldte Nanking-massakerdataene. Baseret på dette materiale udgav han en række bøger, herunder Nanjing-massakren, andet kinesisk-japansk historisk materiale og andet kinesisk-japansk materiale om Nanking-grusomhedens massakre osv. Han hævdede, at Nanking-massakren var en historisk kendsgerning.
Honda Katsuichi: Asahi Shimbun-reporter; rejste rundt i Kina i 1971 i omkring 40 dage for at dække massakren.
Saburo Ienaga: Professor ved Tokyo University of Education. Ud over at skrive i lærebøger, som om Nanking-massakren var en historisk kendsgerning, indgav han en retssag, hvor han hævdede, at selve lærebogscertificeringssystemet var forfatningsstridig, hvilket førte til den lange Ienaga Textbook Trial, som begyndte i 1965.
Kozo Tadokoro: Selvom han tilståede at have begået mord og voldtægt i en periode på cirka ti dage efter Nankings fald, påpegede forskning af professor Tadao Takemoto ved Tsukuba University og professor Yasuo Ohara fra Kokugakuin University, at denne mand ikke kunne have været tilbage i Nanking i ti dage, fordi den enhed, han tilhørte blev overført fra Nanking to dage efter faldet.
Senere tilståede han, at en reporter spurgte ham, om han havde noget interessant at sige, så han snakede bare om ting, der aldrig skete.
I øvrigt er hans ord i The Rape of Nanjing af Iris Chang ...

Der var et papir, jeg opdagede forleden da jeg ledte efter noget.
Dette papir og dets forfatter var helt nye for mig.
Jeg var lettet over at få at vide, at forfatteren var en kandidat fra University of Tokyos fakultet for økonomi og et aktivt medlem af ITOCHU Corporation, ud over hans ekspertise.
Efter jeg kom ind i arbejdsstyrken, mødte jeg to af mine bedste venner for livet.
De var begge ansatte i ITOCHU Corporation.
De var begge ekstremt talentfulde forretningsfolk, hvorfor de begge havde kritiske positioner i virksomheden.
I de senere år har firmaets navn dukket op i diskursen sammen med Uichiro Niwas pro-Kina-udsagn, hvilket har gjort mig utilpas.
Jeg følte, at styrken ved en handelsvirksomhed ligger i det faktum, at enhver af dens ansatte på en måde er en leder af en lille virksomhed.
Deres evne til at se på deres kunders balance og øjeblikkeligt forstå selskabets tilstand var forbløffende.
Han kan også kontrollere hver detalje i et stort anførelsestilbud og bestemme prisens hensigtsmæssighed, noget som selv Japans førende hovedentreprenører ville være rystede.
Jeg følte, at deres styrke var treenigheden af ​​intelligens, magt og energi, der udgjorde Japans styrke.
Virksomhedsbudskabet fra ITOCHU Corporation, "En købmand, et utal af missioner", hænger på bagsidenet på Jingu Stadium, Yakults hjemmebane, og jeg har altid troet, at det var nøjagtigt, når jeg så det.
Forfatteren af ​​indledningsafsnittet, Mr. Takehiko Aoyagi, har en kort biografi.
Han var tidligere professor ved Det Internationale Japanske Universitet.
Han blev født i Kiryu City, Gunma-præfekturet, i 1934. Han dimitterede fra Kiryu Prefectural Kiryu High School.
Han er uddannet fra University of Tokyo Fakultet for økonomi i 1958 og tiltrådte Itochu Corporation.
Han fungerede som administrerende direktør for fødevareafdelingen i Sydney-filialen i ITOCHU Corporation, administrerende direktør for landbrugsproduktionsafdelingen i hovedkontoret for ITOCHU Corporation. Som direktør for ITOCHU Systems Development Corporation.
Fra 1985 til 1997 var han præsident og formand for Nippon Telematique, et joint venture mellem ITOCHU og NTT.
Fra 1995 til 2006 var han viceadministrerende direktør og professor ved International University of Japan GLOBECOM, og fra 2006 til 2016 var han gæsteprofessor ved det samme universitet.
Hans forskningsområder omfatter økonomi, forretningsadministration, finans, informationssamfund, lov, international politik og sikkerhedsteori, og han er en selvudnævnt generalist inden for samfundsvidenskab.
Han er forfatter til "Videtex Strategy" (Informationsvidenskab), "Cyber ​​Surveillance Society" (The Telecommunications Advancement Association), "Personal Protection Overprotection Destruys Japan" (Softbank Shinsho), "Privacy Research in the Information Age" (NTT Publishing) , "Roosevelt forrådte det amerikanske folk og trak Japan ind i krig" (Heart Publishing), "The History of Japan Twisted by America to Psychological Disarm the Japanese" (Heart Publishing), og mange andre.
Jeg snuble over et papir fra Aoyanagi, der vandt en pris for ekspertise i APA-gruppens syvende årlige "True View of Modern History" -konkurrencearbejde.
Det er en must-read for befolkningen i Japan og resten af ​​verden.
Utallige passager beskriver perfekt Arimas hjernestruktur og NHK-medarbejderne, der kontrollerer NHK / Watch 9, som jeg fandt virkelig utilgivelig den anden aften.
Hvorfor japanerne så hurtigt er kommet til bytte for WGIP
For det første, fordi WGIP var klogt skjult og henrettet i hemmelighed, vidste japanerne ikke engang hjernevaskeprogrammet eksisterede.
USA introducerede ideen om demokrati på en stor måde, så det tog en central plads i Japans ideologi og uddannelsesfilosofi efter krigen.
Det japanske folk var aldrig i deres vildeste drømme klar over, at GHQ, dets hovedkvarter, fremmede hjernevask ved at nægte "ytringsfrihed."
For det andet var meget af det, GHQ forplantede, krigshemmelighed, og da al militærhistorie blev ødelagt, havde japanerne ingen måde at verificere sandheden.
Af denne grund troede det japanske folk uden tvivl, at militaristerne løj og bedragede offentligheden.
For det tredje har næsten alle akademikere, som japanerne stoler på, ukritisk og uforbeholdent accepteret Tokyo Trials 'historie og har endda offentliggjort artikler og bøger, der aktivt understøtter denne opfattelse, hvilket øger forvirringen.
Navnlig støttede betydningsfulde historikere Tokyo Tribunals syn på historien og offentliggjorde en række undersøgelser, der så på hele historien om Japans fortid i et negativt lys.
Mange af de studerende, der blev undervist af disse lærde, blev lærere og lærte deres børn et masochistisk syn på historien.
Denne opfattelse af Tokyo-forsøgets historie blev indprentet i den yngre generation gennem historisk uddannelse.

I sin bog går Nagahara Keiji, professor emeritus ved Hitotsubashi University, formand for Society for Historical Research, så langt som at sige, at ”japansk historie blev lært at se historien korrekt af Tokyo-forsøgene.
Realiteten er, at det historiske akademi, med få undtagelser, stadig er fast forankret i sin støtte til det historiske syn på Tokyo-forsøgene.
De eneste mennesker, der argumenterer for en korrekt forståelse af historien, er lærde, der ikke har nogen forbindelse til historiens verden.
Watanabe Shoichi, en kritiker og engelsk sprogforsker; Ko Bun'yū, en historiker af vestlig økonomi; Nishio Kanji, tysk litteratur; Hasegawa Michiko, filosof; Nakamura Akira, engelsk litteratur; Sakurai Yoshiko, journalist; Ushio Masato, tidligere officer inden for luftforsvarsforsvaret; Kobori Keiichiro, tysk litteratur og komparativ litteratur; Nakanishi Terumasa, europæisk diplomatisk historie og international politik; Fujiwara Masahiko, matematiker og essayist, og listen fortsætter og fortsætter.
Alle af dem er engagerede i en lang række store intellektuelle aktiviteter, der går ud over deres titler.
Det samme gælder for juridisk akademi.
Tokyo-forsøgets substans var, at de var ulovlige lynchings af de sejrende magter, og selv de allierede var usikre på deres gyldighed.
Imidlertid hævdede professor Kizaburo Yokota, professor i international ret ved Tokyo Imperial University's Juridiske Fakultet og betragtes som en af ​​verdens førende folkeretlige myndigheder, overraskende, at Tokyo Tribunal var legitim.
Han skrev krigsforbrydelser og accepterede ukritisk Tokyo Tribunal's historiske perspektiv og sagde, at "der er ingen tvivl i mit sind om, at der er en stærk intention blandt næsten alle nationer om at betragte aggressionskrigen som en international kriminalitet."
Mange andre juridiske lærde på det tidspunkt fulgte trop som en lavine, hvilket gjorde WGIP's magt enorm.
Fortsættes.

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Det fanns ett papper som jag upptäckte häromdagen när jag letade efter något.

2020年08月31日 17時31分40秒 | 全般

Följande är en fortsättning av föregående kapitel.
Detta kapitel avslöjar också varför Kina har hållit historien om Wuhan-viruset hemligt.
NHK och resten av de japanska medierna vägrar att komma till botten av saken genom att bli disciplinerade av Kina och avslöjar hur dumt och motbjudande det är.
De är de mest dumma och avskyvärda människorna som inte ens är behöriga att diskutera frågan sanning.
Nanking-massakern
Mycket forskning har gjorts om Nanking-massakern, men det finns ingen tid att gå in på allt här.
Jag vill dock påpeka att kineserna har ett tankesätt på "undvikande" (gömmer sig eller undviker), vilket också har kastat en skugga över Nankings massakern.
I Kina är ansiktet viktigare än sanningen.
Därför måste allt som är skadligt för nationen och dess familjer döljas grundligt, även om det innebär att böja fakta.
Att ljuga för det ändamålet är inte bara en etiskt korrekt handling; det är till och med en plikt.
Frågan i fråga är händelsen 1937, under de första kinesiska-japanska krigets tidiga år då japanerna attackerade och ockuperade staden Nanking, de kinesiska trupperna tog av sig uniformerna, berövade civila kläderna och blev gerillor, krigsfångar och massakrerade civila i stort antal.
Sedan Chiang Kai-shek trak sig tillbaka tidigt den 7 december hade den kinesiska arméens kommandokedja kollapsat och organiserad överlämning verkade omöjlig.
Många kinesiska soldater som lämnades inom och utanför Nanjing City tog av sig uniformerna, rånade civila kläderna, blev gerillor och försökte fly.
Enligt internationell lag hade sådana gerillor inte rätt att engagera sig som soldater och hade inte rätt till behandling av krigsfångar om de övergav sig.
Som ett exempel på det faktum att båda sidor inte kan existera som nämns i avsnittet "Bevis av motsägelse" i föregående område visas några exempel nedan, markerade med en stjärna.
☆ Cirka 150 journalister och kameraföretag följde den japanska armén vid tidpunkten för Nankings fall.
Ingen av dem var emellertid bevittnat en sådan massakre.
Det finns bara rapporter med bilder av japanska trupper som distribuerar mat och andra föremål till Nanjings medborgare, och medborgarna är glada att se det.
Ledsagande journalister är: inklusive japanska journalister, Reuters, AP och andra västerländska journalister.
Det fanns också ett filmteam från US Paramount News som dokumenterade Nankings ockupation och en reporter från North China Daily News, en brittisk engelskspråkig tidning.
Ingen av dem rapporterade emellertid om massakern.
Istället var det enda som rapporterades synen av japanska trupper som distribuerade mat och andra förnödenheter till medborgarna i Nanking, med bilder av folket i Nanking jublade.
Yoshio Kanazawa, kameraman från Tokyo Nichi Nichi Shimbun, vittnade också: 'Jag har gått runt Nanking och jag har aldrig sett en massakre.'
Asahi Shimbun bar också ett fotografi av slottet under titeln "Nanjing återuppliva fred."
☆ Regeringen för president Wang Chao-Ming (王 精衛), som bildades två år efter den japanska invasionen av Nanjing, har inte heller nämnt massakern i Nanjing.
Om massakern faktiskt hade ägt rum skulle regimen ha gjort detta känt för världen, men detta var aldrig fallet.
☆ Rapporten som skickades av vice konsul James Espy från den amerikanska konsulatet i Nanjing vid den tiden till den amerikanska ambassadören Nelson Johnson nämnde inte en sådan massakre.
Eftersom USA hade varit anti-japanska sedan dess, skulle det inte ha funnits någon utsmyckning för att täcka faktumet.
☆ I den kinesiska nationalistpartiets "allmänna överblick över den centrala propagandadepartementets internationella propagandaverksamhet" (1941) nämnde det inte den japanska arméns civilmassaker och massakren av krigsfångar.
☆ På presskonferenserna som nästan dagligen hölls av det kinesiska nationalistpartiets centrala propagandavdelning nämndes inte ens Nanking-massakern.
☆ På hundratals presskonferenser som hölls av Chiang Kai-shek med utländska journalister nämnde man inte Nanking-massakern.
Siffran 300 000 offer nämndes i Tokyo Tribunal, men det är en ogrundad och överdriven siffra.
Till och med "Historien om Stillahavskriget", publicerad av GHQ i den japanska tidningen efter kriget, skrev siffran på 20 000.
300 000 kan jämföras med antalet dödsfall från atombombningarna i Hiroshima och Nagasaki.
Arbetet med att bortskaffa kropparna och pappersarbetet ensam är inte ett nummer som kan hanteras utan att registreras.
* Haruki Murakami skrev att antalet inte var 300 000, kanske mer *.

Många böcker och memoarer fyllda med en masochistisk historia har publicerats om denna händelse från den japanska sidan, som alla fungerar som dokument för Japans kinesiska attack.
Professor Tomio Hora från Waseda University gav dem, Asahi Shimbun-reporter Honda Katsuichi, professor Ienaga Saburo från Tokyo University of Education, före detta soldat Tadokoro Kozo, tidigare soldat Sone Hajime och Matsuoka Tamaki.
Det är från How Japan Confronts China, av Shoichi Watanabe, WAC, 2013.
Sida 266
Hora Tomio: professor vid Waseda University, inbjuden till Kina 1966 och försågs med vad han kallade Nanking Massacre-data. Baserat på detta material publicerade han en serie böcker, inklusive massakern i Nanjing, andra kinesisk-japanska historiska materialet och andra kinesisk-japanska materialet om massakern i Nanking-grymheterna, osv. Han hävdade att massakern i Nanking var ett historiskt faktum.
Honda Katsuichi: Asahi Shimbun-reporter; reste runt Kina 1971 i cirka 40 dagar för att täcka massakern.
Saburo Ienaga: professor vid Tokyo University of Education. Förutom att skriva i läroböcker som om Nanking-massakern var ett historiskt faktum, lämnade han in en rättegång och hävdade att själva lärobokscertifieringssystemet var författningsstridigt, vilket ledde till den långa rättegången i Enaga, som började 1965.
Kozo Tadokoro: Även om han medgav att ha begått mord och våldtat sig själv under en period av cirka tio dagar efter Nankings fall, påpekade forskning av professor Tadao Takemoto från Tsukuba University och professor Yasuo Ohara från Kokugakuin University att den här mannen inte kunde ha stannat kvar i Nanking i tio dagar eftersom enheten som han tillhörde överfördes från Nanking två dagar efter fallet.
Han erkände senare att en reporter frågade honom om han hade något intressant att säga, så han pratade bara om saker som aldrig hände.
Förresten är hans ord i The Rape of Nanjing av Iris Chang ...

Det fanns ett papper som jag upptäckte häromdagen när jag letade efter något.
Detta papper och dess författare var helt nytt för mig.
Jag var lättad över att förstå att författaren var utexaminerad från University of Tokyos fakultet för ekonomi och en aktiv medlem av ITOCHU Corporation, förutom den excellens som finns i hans uppsats.
Efter att jag gått in i arbetskraften, träffade jag två av mina bästa vänner för livet.
De var båda anställda i ITOCHU Corporation.
De var båda extremt begåvade affärsmän, varför de båda hade kritiska positioner i företaget.
Under de senaste åren har företagets namn dykt upp i diskursen tillsammans med Uichiro Niwa: s pro-Kina uttalanden, vilket har gjort att jag känner mig obekväm.
Jag kände att styrkan hos ett handelsföretag ligger i det faktum att var och en av dess anställda på något sätt är en chef för ett litet företag.
Deras förmåga att titta på sina kunders balansräkningar och omedelbart förstå företagets tillstånd var häpnadsväckande.
Han kan också kontrollera varje detalj i en stor bygg offert och bestämma prisets lämplighet, något som till och med Japans ledande byggentreprenörer skulle bli förskräckta.
Jag kände att deras styrka var treenigheten för intelligens, kraft och energi som utgjorde Japans styrka.
Företagsbudskapet från ITOCHU Corporation, "En handlare, en myriad av uppdrag", hänger på baksidan av Jingu Stadium, Yakults hemmaban, och jag har alltid tyckt att det var exakt rätt när jag såg det.
Författaren till inledande stycket, Mr. Takehiko Aoyagi, har en kort biografi.
Han var tidigare professor vid International University of Japan.
Han föddes i Kiryu City, Gunma Prefecture, 1934. Han tog examen från Kiryu Prefectural Kiryu High School.
Han tog examen från University of Tokyo fakultet för ekonomi 1958 och gick med i Itochu Corporation.
Han fungerade som chef för livsmedelsavdelningen i Sydney Branch of ITOCHU Corporation, General Manager för Agricultural Products Department vid huvudkontoret för ITOCHU Corporation. Som chef för ITOCHU Systems Development Corporation.
Från 1985 till 1997 var han ordförande och ordförande i Nippon Telematique, ett joint venture mellan ITOCHU och NTT.
Från 1995 till 2006 var han biträdande direktör och professor vid International University of Japan GLOBECOM, och från 2006 till 2016 var han gästprofessor vid samma universitet.
Hans forskningsområden inkluderar ekonomi, företagsadministration, ekonomi, informationssamhälle, lag, internationell politik och säkerhetsteori, och han är en självutnämnd generalist inom samhällsvetenskapen.
Han är författare till "Videtex Strategy" (Informationsvetenskap), "Cyber ​​Surveillance Society" (The Telecommunications Advancement Association), "Personal Protection Overprotection Destroys Japan" (Softbank Shinsho), "Privacy Research in the Information Age" (NTT Publishing) , "Roosevelt förrådde det amerikanska folket och drog Japan in i krig" (Heart Publishing), "The History of Japan Twisted by America to Psychological Disarm the Japanese" (Heart Publishing), och många andra.
Jag snubblade på en uppsats av Aoyanagi som vann ett utmärkelsepris i APA-gruppens sjunde årliga "True View of Modern History" -tävlingsuppsats.
Det är en måste-läsning för folket i Japan och resten av världen.
Otaliga passager beskriver perfekt Arimas hjärnstruktur och NHK-anställda som kontrollerar NHK / Watch 9, vilket jag tyckte verkligen var oförlåtligt den andra natten.
Varför japanerna så snabbt har blivit offer för WGIP
Först, eftersom WGIP var smart dolda och avrättade i hemlighet, visste japanerna inte ens att hjärntvättprogrammet fanns.
USA introducerade ideen om demokrati på ett stort sätt, så det tog en central plats i Japans ideologi och utbildningsfilosofi efter kriget.
Aldrig insåg det japanska folket i sina vildaste drömmar att GHQ, dess huvudkontor, främjade hjärntvätt genom att förneka "yttrandefrihet."
För det andra var mycket av det som GHQ propagerade för krigstid, och eftersom all militärhistoria förstördes, hade japanerna inget sätt att verifiera sanningen.
Av denna anledning trodde det japanska folket utan tvekan att militaristerna ljög och lurade allmänheten.
För det tredje har nästan alla akademiker som japanska förlitar sig på kritiskt och obesvarat accepterat Tokyo Trials historia och har till och med publicerat artiklar och böcker som aktivt stöder denna uppfattning och bidrar till förvirringen.
I synnerhet stödde betydande historiker Tokyo Tribunals syn på historien och publicerade en serie studier som tittade på hela Japans förflutna i ett negativt ljus.
Många av de studenter som lärts ut av dessa forskare blev lärare och lärde sina barn en masochistisk syn på historien.
Denna syn på Tokyo Trials historia införlivades i den yngre generationen genom historisk utbildning.

I sin bok går Nagahara Keiji, professor emeritus vid Hitotsubashi University, ordförande för Society for Historical Research, så långt som att säga att "japansk historia lärde sig att se historien korrekt av Tokyo-försöken.
Verkligheten är att den historiska akademin, med några få undantag, fortfarande är rotad i sitt stöd för den historiska synen på Tokyo-försöken.
De enda människorna som argumenterar för en korrekt förståelse av historien är forskare som inte har någon koppling till historiens värld.
Watanabe Shoichi, en kritiker och engelsk lingvist; Kō Bun'yū, en historiker av västerländsk ekonomi; Nishio Kanji, tysk litteratur; Hasegawa Michiko, filosof; Nakamura Akira, engelsk litteratur; Sakurai Yoshiko, journalist; Ushio Masato, tidigare Air Self-Defense Force officer; Kobori Keiichiro, tysk litteratur och jämförande litteratur; Nakanishi Terumasa, europeisk diplomatisk historia och internationell politik; Fujiwara Masahiko, matematiker och essayist, och listan fortsätter och fortsätter.
Alla är engagerade i en mängd stora intellektuella aktiviteter som går utöver deras titlar.
Detsamma gäller lagakademin.
Tokyo-försöksinnehållet var att de var olagliga lynchningar av de segrande makterna, och även de allierade var osäkra på deras giltighet.
Professor Kizaburo Yokota, professor i internationell rätt vid Tokyo Imperial Universitys juridiska fakultet och ansågs vara en av världens ledande myndigheter för internationell rätt, hävdade dock överraskande att Tokyo Tribunal var legitim.
Han skrev The War Crimes och accepterade kritiskt Tokyo Tribunalens historiska perspektiv och konstaterade att "det råder ingen tvekan om att det finns en stark avsikt bland nästan alla nationer att betrakta aggressionskriget som ett internationellt brott."
Många andra juridiska forskare vid den tiden följde som en lavin, vilket gjorde WGIP: s kraft enorm.
Fortsättning följer.

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前幾天我在找東西時發現了一篇論文。

2020年08月31日 17時29分34秒 | 全般

以下是上一章的續篇。
本章還揭示了為什麼中國將武漢病毒的故事保密。
NHK和其他日本媒體拒絕接受中國的紀律調查,以揭露問題的根源。
他們是最愚蠢和邪惡的人,甚至沒有資格討論事情的真相。
南京大
在“南京大”問題上已經進行了大量研究,但是這裡沒有時間進行討論。
但是,我想指出的是,中國人的心態是“迴避”(躲避或躲避),這也給南京大蒙上了陰影。
在中國,面對比真理更重要。
因此,任何對國家及其家庭有害的東西都必須被完全隱藏起來,即使這意味著歪曲事實。
為此目的撒謊不僅是一種道德上正確的舉動,這甚至是一種責任。
問題是1937年的事件,在第二次中日戰爭的初期,日本人進攻並佔領了南京市,中國軍隊脫掉了他們的製服,搶劫了平民,變成了游擊隊,戰俘和大量被的平民。
自從蔣介石於12月7日撤退以來,中國軍隊的指揮系統已經瓦解,有組織的投降似乎是不可能的。
許多留在南京市內外的中國士兵脫下制服,搶劫平民的衣服,成為游擊隊,並試圖逃脫。
根據國際法,這種游擊隊沒有作為士兵的參與權,如果交出戰俘就無權得到待遇。
作為上述區域的“矛盾證明”部分中提到的雙方都不能存在的事實的示例,下面顯示了一些帶有星號的示例。
☆南京淪陷時,約有150名記者和攝像師陪同日軍。
但是,他們都沒有目睹過這樣的大。
僅有報導帶有日軍向南京市民分發食物和其他物品的圖片,市民對此感到高興。
隨行的記者包括:日本記者,路透社,美聯社和其他西方記者。
美國派拉蒙新聞社的攝製組記錄了南京的佔領情況,英國英文報紙《華北日報》的記者也對此進行了報導。
但是,他們都沒有報導。
相反,所報導的唯一一件事是看到日軍向南京市民分發食物和其他物資,並留下了南京人民歡欣鼓舞的照片。
東京Nichi Nichi Shimbun的攝影師Yoshio Kanazawa先生也作證說:“我到南京走來走去,從未見過。”
朝日新聞還載有一張名為“南京復興和平”的城堡照片。
☆日本入侵南京兩年後成立的王精衛總統政權也沒有提及南京大。
如果實際上發生了大,該政權將使世界知道這一點,但事實並非如此。
☆當時美國駐南京總領事館副領事詹姆斯·埃斯佩(James Espy)向美國大使納爾遜·約翰遜(Nelson Johnson)發送的報告中沒有提及這種。
自從美國從那時起一直抗日以來,就沒有任何掩飾事實的掩飾。
☆在中國國民黨的《中宣部國際宣傳活動概況》(1941)中,沒有提到日軍的平民和戰俘。
☆在中國國民黨中央宣傳部幾乎每天舉行的新聞發布會上,甚至沒有提到南京大。
☆在蔣介石與外國記者舉行的數百次新聞發布會上,沒有提到南京大。
東京法庭提到了30萬受害者的數字,但這是毫無根據和誇大的數字。
甚至是戰後GHQ在日本報紙上發表的“太平洋戰爭的歷史”也以20,000寫了這個數字。
30萬人相當於廣島和長崎原子彈爆炸造成的死亡人數。
處理屍體的工作和單憑文書工作並不是一個沒有記錄就無法處理的數字。
*村上春樹(Haruki Murakami)寫道,這個數字不是30萬,甚至可能更多*。

日方對此事件發表了許多帶有受虐狂歷史觀的書籍和回憶錄,所有這些書籍和回憶錄都是日本侵華的文件。
早稻田大學的富田Hor夫教授,《朝日新聞》本田勝一,東京教育大學的三枝三郎教授,前士兵T戶晃三郎,前士兵桑根肇和松岡玉明提供了他們。
摘自WAC渡邊昭一(Shoichi Watanabe),2013年,《日本如何面對中國》。
第266頁
Hora Tomio:早稻田大學教授,1966年應邀來到中國,並得到了他所謂的南京大數據。在此資料的基礎上,他出版了《南京大》,《第二次中日曆史資料》和《第二次中日關於南京暴行大的資料》等著作。他聲稱南京大是歷史事實。
本田勝一:《朝日新聞》記者; 1971年,他在中國各地旅行了約40天,以掩蓋這場大。
永永三郎:東京教育大學教授。除了把課本寫成南京大是一個歷史事實之外,他還提起訴訟,聲稱課本認證制度本身是違憲的,這導致了冗長的Ienaga課本試驗,該試驗始於1965年。
田戶晃三郎(Kozo Tadokoro):儘管他承認在南京淪陷後約十天之內犯下了謀殺和強姦自己的罪行,但筑波大學的竹本忠雄教授和國學大學的大原康夫教授的研究指出,這個人不可能留在美國。南京呆了十天,因為他所屬的單位在淪陷後兩天才從南京轉移過來。
他後來承認,記者問他是否有話要說,所以他只是談論從未發生過的事情。
順便說一句,他的話是艾里斯·張的《南京大奸案》。

前幾天我在找東西時發現了一篇論文。
這篇論文及其作者對我來說是全新的。
令我感到欣慰的是,除了論文出色之外,作者還畢業於東京大學經濟系,並是伊藤忠商事株式會社的活躍成員。
進入工作崗位後,我遇到了兩個我一生中最好的朋友。
他們都是伊藤忠商事株式會社的員工。
他們都是非常有才華的商人,這就是為什麼他們倆都在公司中擔任重要職務。
近年來,該公司的名字出現在二郎一郎(Uichiro Niwa)親中國聲明的旁邊,這讓我感到不舒服。
我覺得一家貿易公司的實力在於,從某種意義上說,每個員工都是小企業的經理。
他們查看客戶資產負債表並立即掌握公司狀況的能力令人震驚。
他還可以檢查大型建築報價的每個細節,並確定價格的適當性,甚至連日本領先的總承包商也會對此感到震驚。
我覺得他們的力量是構成日本力量的三位一體的情報,權力和精力。
伊藤忠商事株式會社的企業信息“一個商人,無數任務”掛在養樂多家鄉津古體育場的後網上,我總是以為只要看到它,那是完全正確的。
開篇段落的作者青木武彥先生有一個簡短的傳記。
他曾任日本國際大學教授。
他於1934年出生於群馬縣桐生市。他畢業於桐生縣桐生高中。
他於1958年畢業於東京大學經濟學院,並加入了伊藤忠商事株式會社。
他曾任伊藤忠商事株式會社悉尼分公司食品部總經理,伊藤忠商事株式會社總部農產品部總經理。擔任伊藤忠商事系統開發株式會社理事。
1985年至1997年,他擔任ITOCHU和NTT合資企業Nippon Telematique的總裁兼董事長。
從1995年到2006年,他是日本國際大學GLOBECOM的副主任和教授,從2006年到2016年,他是同一所大學的客座教授。
他的研究領域包括經濟學,工商管理,金融,信息社會,法律,國際政治和安全理論,並且他是社會科學領域的自任命通才。
他是《 Videtex戰略》(信息科學),《網絡監視協會》(電信發展協會),《個人信息過度保護摧毀日本》(軟銀新書),《信息時代的隱私研究》(NTT出版)的作者。 ,《羅斯福背叛了美國人民並使日本陷入戰爭》(心臟出版社),《美國扭曲的日本歷史從心理上解除了日本人的武裝》(心臟出版社)等。
我偶然發現了Aoyanagi撰寫的一篇論文,該論文在APA Group的第七屆“現代歷史的真實視角”競賽論文中獲得了卓越獎。
這是日本人民和世界其他地方必讀的書。
無數篇幅完美地描述了有馬的大腦結構和控制NHK / Watch 9的NHK員工,這是前一天晚上我不可原諒的。
為什麼日本人如此迅速成為WGIP的犧牲品
首先,由於WGIP被秘密隱藏並秘密執行,日本人甚至不知道存在洗腦程序。
美國在很大程度上引入了民主的思想,因此在戰後日本的思想和教育哲學中佔據了中心位置。
日本人民從未在其最野蠻的夢想中意識到,總部所在地GHQ通過否認“言論自由”來促進洗腦。
其次,GHQ傳播的大部分內容是戰時保密,而且由於所有軍事歷史都被摧毀,日本人無法驗證真相。
因此,日本人民無疑相信軍國主義者撒謊並欺騙了公眾。
第三,日本人所依賴的幾乎所有學者都毫不保留地,毫無保留地接受了東京審判的歷史,甚至發表了積極支持這一觀點的文章和書籍,這增加了混亂。
特別是,重要的歷史學家支持東京法庭的歷史觀點,並發表了一系列研究,以消極的眼光看待了日本過去的整個歷史。
這些學者所教的許多學生成為老師,並教給他們的孩子對歷史的自虐。
通過歷史教育將對東京審判歷史的看法灌輸給年輕一代。

歷史研究學會理事長一橋大學名譽教授長原啟治在他的書中甚至說,“東京審判教導日本歷史正確看待歷史。
現實是,除了少數例外,歷史學院仍然堅定地支持東京審判的歷史觀。
唯一主張對歷史有正確理解的人是與歷史世界毫無聯繫的學者。
評論員,英語語言學家渡邊昭一;西方經濟學歷史學家考本尤(KōBun'yū);西尾漢二(Nishio Kanji),德國文學;長谷川美智子,哲學家;中村明,英國文學;櫻井良子,記者;前空軍自衛隊軍官Ushio Masato; Kobori Keiichiro,德語和比較文學;中西照政,歐洲外交史和國際政治;數學家和散文學家藤原正彥,這個清單還在繼續。
他們所有人都從事各種超越其頭銜的偉大智力活動。
法學院也是如此。
東京審判的實質是,它們是勝利大國的非法私刑,甚至盟國也不確定其有效性。
然而,東京帝國大學法學院國際法教授吉澤三郎(Kizaburo Yokota)教授令人驚訝地認為,東京法庭是合法的。
他寫了《戰爭罪行》,不加批判地接受了東京法庭的歷史觀點,並指出:“毫無疑問,幾乎所有國家都強烈打算將侵略戰爭視為國際罪行。”
當時,許多其他法律學者也像雪崩般效仿,這使得WGIP的力量巨大。
未完待續。

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前几天我在找东西时发现了一篇论文。

2020年08月31日 17時26分06秒 | 全般

以下是上一章的续篇。
本章还揭示了为什么中国将武汉病毒的故事保密。
NHK和其他日本媒体拒绝接受中国的纪律调查,以揭露问题的根源。
他们是最愚蠢和邪恶的人,甚至没有资格讨论事情的真相。
南京大屠杀
在“南京大屠杀”问题上已经进行了大量研究,但是这里没有时间进行讨论。
但是,我想指出的是,中国人的心态是“回避”(躲避或躲避),这也给南京大屠杀蒙上了阴影。
在中国,面对比真理更重要。
因此,任何对国家及其家庭有害的东西都必须被完全隐藏起来,即使这意味着歪曲事实。
为此目的撒谎不仅是一种道德上正确的举动,这甚至是一种责任。
问题是1937年的事件,在第二次中日战争初期,日军进攻并占领了南京市,中国军队脱下制服,抢劫平民衣服,成为游击队,战俘和大量被屠杀的平民。
自从蒋介石于12月7日撤退以来,中国军队的指挥系统已经瓦解,有组织的投降似乎是不可能的。
许多留在南京市内外的中国士兵脱下制服,抢劫平民的衣服,成为游击队,并试图逃脱。
根据国际法,这种游击队没有作为士兵的参与权,如果交出战俘也无权得到待遇。
作为上述区域的“矛盾证明”部分中提到的双方都不能存在的事实的示例,下面显示了一些带有星号的示例。
☆南京沦陷时,约有150名记者和摄像师陪同日军。
但是,他们都没有目睹过这样的大屠杀。
仅有报道带有日军向南京市民分发食物和其他物品的图片,市民对此感到高兴。
随行的记者包括:日本记者,路透社,美联社和其他西方记者。
美国派拉蒙新闻社的摄制组记录了南京的占领情况,英国英文报纸《华北日报》的记者也对此进行了报道。
但是,他们都没有报道屠杀。
相反,所报道的唯一一件事是看到日军向南京市民分发食物和其他物资,并看到了南京人民的欢呼声。
东京Nichi Nichi Shimbun的摄影师Yoshio Kanazawa先生也作证说:“我在南京附近走动,从未见过屠杀。”
朝日新闻还载有一张名为“南京复兴和平”的城堡照片。
☆日本入侵南京两年后成立的王精卫总统政权也没有提及南京大屠杀。
如果实际上发生了大屠杀,该政权将使世界知道这一点,但事实并非如此。
☆当时美国驻南京总领事馆副领事詹姆斯·埃斯佩(James Espy)向美国大使纳尔逊·约翰逊(Nelson Johnson)发送的报告中没有提及这种屠杀。
自从美国从那时起一直抗日以来,就没有任何掩饰事实的掩饰。
☆在中国国民党的《中宣部国际宣传活动概况》(1941)中,没有提到日军的平民屠杀和战俘屠杀。
☆在中国国民党中央宣传部几乎每天举行的新闻发布会上,甚至没有提到南京大屠杀。
☆在蒋介石与外国记者举行的数百次新闻发布会上,没有提到南京大屠杀。
东京法庭提到了30万受害者的数字,但这是毫无根据和夸大的数字。
甚至是战后GHQ在日本报纸上发表的“太平洋战争的历史”也以20,000写了这个数字。
30万人相当于广岛和长崎原子弹爆炸造成的死亡人数。
处理尸体和文书工作本身并不是一个未经记录就无法处理的数字。
*村上春树(Haruki Murakami)写道,这个数字不是30万,甚至可能更多*。

日方对此事件发表了许多带有受虐狂历史观的书籍和回忆录,所有这些书籍和回忆录都是日本侵华的文件。
早稻田大学的富田Hor夫教授,《朝日新闻》本田胜一,东京教育大学的三枝三郎教授,前士兵T户晃三郎,前士兵桑根肇和松冈玉明提供了他们。
摘自WAC渡边昭一(Shoichi Watanabe),2013年,《日本如何面对中国》。
第266页
Hora Tomio:早稻田大学教授,1966年应邀来到中国,并得到了他所谓的南京大屠杀数据。在此资料的基础上,他出版了《南京大屠杀》,《第二次中日历史资料》和《第二次中日关于南京暴行大屠杀的资料》等著作。他声称南京大屠杀是历史事实。
本田胜一:《朝日新闻》记者; 1971年,他在中国各地旅行了约40天,以掩盖这场大屠杀。
永永三郎:东京教育大学教授。除了把课本写成南京大屠杀是一个历史事实之外,他还提起诉讼,声称课本认证制度本身是违宪的,这导致了冗长的Ienaga课本试验,该试验始于1965年。
田户晃三郎(Kozo Tadokoro):尽管他承认在南京沦陷后约十天之内犯下了谋杀和强奸自己的罪行,但筑波大学的竹本忠雄教授和国学大学的大原康夫教授的研究指出,这个人不可能留在美国。南京呆了十天,因为他所属的单位在沦陷后两天才从南京转移过来。
他后来承认,记者问他是否有话要说,所以他只是谈论从未发生过的事情。
顺便说一句,他的话是艾里斯·张的《南京大奸案》。

前几天我在找东西时发现了一篇论文。
这篇论文及其作者对我来说是全新的。
令我感到欣慰的是,除了论文出色之外,作者还毕业于东京大学经济系,并且是伊藤忠商事株式会社的活跃成员。
进入工作岗位后,我遇到了两个我一生中最好的朋友。
他们都是伊藤忠商事株式会社的员工。
他们都是非常有才华的商人,这就是为什么他们俩都在公司中担任重要职务。
近年来,该公司的名字出现在二郎一郎的亲中国声明旁边,这让我感到不舒服。
我觉得一家贸易公司的实力在于,从某种意义上说,每个员工都是小企业的经理。
他们查看客户资产负债表并立即掌握公司状况的能力令人震惊。
他还可以检查大型建筑报价的每个细节,并确定价格的适当性,甚至连日本领先的总承包商也会对此感到震惊。
我觉得他们的力量是构成日本力量的三位一体的情报,权力和精力。
伊藤忠商事株式会社的企业信息“一个商人,无数任务”挂在养乐多家乡津古体育场的后网上,我总是以为每次见到它都是正确的。
开篇段落的作者青木武彦先生有一个简短的传记。
他曾任日本国际大学教授。
1934年出生于群马县桐生市。毕业于桐生县桐生高中。
他于1958年毕业于东京大学经济学院,并加入了伊藤忠商事株式会社。
他曾任伊藤忠商事株式会社悉尼分公司食品部总经理,伊藤忠商事株式会社总部农产品部总经理。担任伊藤忠商事系统开发株式会社理事。
1985年至1997年,他担任ITOCHU和NTT合资企业Nippon Telematique的总裁兼董事长。
从1995年到2006年,他是日本国际大学GLOBECOM的副主任和教授,从2006年到2016年,他是同一所大学的客座教授。
他的研究领域包括经济学,工商管理,金融,信息社会,法律,国际政治和安全理论,并且他是社会科学领域的自任命通才。
他是《 Videtex战略》(信息科学),《网络监视协会》(电信发展协会),《个人信息过度保护摧毁日本》(软银新书),《信息时代的隐私研究》(NTT出版)的作者。 ,《罗斯福背叛了美国人民并使日本陷入战争》(心脏出版社),《美国扭曲的日本历史从心理上解除了日本人的武装》(心脏出版社)等。
我偶然发现Aoyanagi撰写的一篇论文,该论文在APA Group的第七届年度“现代历史的真实视角”竞赛论文中获得了卓越奖。
这是日本人民和世界其他地方必读的书。
无数篇幅完美地描述了有马的大脑结构和控制NHK / Watch 9的NHK员工,这是前一天晚上我不可原谅的。
为什么日本人如此迅速成为WGIP的牺牲品
首先,由于WGIP被秘密隐藏并秘密执行,日本人甚至不知道存在洗脑程序。
美国在很大程度上引入了民主的思想,因此在战后日本的思想和教育哲学中占据了中心位置。
日本人民从未在其最野蛮的梦想中意识到,总部所在地GHQ通过否认“言论自由”来促进洗脑。
其次,GHQ传播的大部分内容是战时保密,而且由于所有军事历史都被摧毁,日本人无法证实真相。
因此,日本人民无疑相信军国主义者撒谎并欺骗了公众。
第三,日本人所依赖的几乎所有学者都毫不保留地,毫无保留地接受了东京审判的历史,甚至发表了积极支持这一观点的文章和书籍,这增加了混乱。
特别是,重要的历史学家支持东京法庭的历史观点,并发表了一系列研究,以消极的眼光看待了日本过去的整个历史。
这些学者所教的许多学生成为老师,并教给他们的孩子对历史的自虐。
通过历史教育将对东京审判历史的看法灌输给年轻一代。

历史研究学会理事长一桥大学名誉教授长原启治在他的书中甚至说,“东京审判教导日本历史正确看待历史。
现实是,除少数例外,历史学院仍然坚定地支持东京审判的历史观。
唯一主张对历史有正确理解的人是与历史世界毫无联系的学者。
评论家,英语语言学家渡边昭一;西方经济学历史学家考本尤(KōBun'yū);西尾汉二(Nishio Kanji),德国文学;长谷川美智子,哲学家;中村明,英国文学;樱井良子,记者;前空军自卫队军官Ushio Masato; Kobori Keiichiro,德语和比较文学;中西照政,欧洲外交史和国际政治;数学家和散文学家藤原正彦,这个清单还在继续。
他们所有人都从事各种超越其头衔的伟大智力活动。
法学院也是如此。
东京审判的实质是,它们是胜利大国的非法私刑,甚至盟国也不确定其有效性。
然而,东京帝国大学法学院国际法教授吉泽三郎(Kizaburo Yokota)教授令人惊讶地认为,东京法庭是合法的。
他写了《战争罪行》,不加批判地接受了东京法庭的历史观点,并指出:“毫无疑问,几乎所有国家都强烈打算将侵略战争视为国际罪行。”
当时,许多其他法律学者也像雪崩般效仿,这使得WGIP的力量巨大。
未完待续。

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저번에 뭔가를 찾고있을 때 발견 한 논문이있었습니다.

2020年08月31日 17時23分51秒 | 全般

다음은 이전 장의 계속입니다.
이 장은 또한 중국이 우한 바이러스에 대한 이야기를 비밀로 유지 한 이유를 보여줍니다.
NHK를 비롯한 일본 언론들은 중국의 징계를 받아 그 문제가 얼마나 어리 석고 혐오 스러운지 드러내며 문제의 원인을 밝히기를 거부하고있다.
그들은 문제의 진실을 논의 할 자격조차없는 가장 어리 석고 사악한 사람들입니다.
난징 대학살
난징 학살 문제에 대해 많은 연구가 수행되었지만 여기에서 모든 문제를 다룰 시간이 없습니다.
그러나 나는 중국인들이 남경 학살에도 그림자를 드리 우는 "회피"(숨기거나 피하는 것)의 사고 방식을 가지고 있음을 지적하고 싶다.
중국에서는 진실보다 얼굴이 더 중요합니다.
따라서 국가와 가족에게 해로운 것은 사실을 왜곡하더라도 철저히 숨겨야합니다.
그 목적을 위해 거짓말하는 것은 윤리적으로 올바른 행동 일뿐만 아니라; 그것은 의무이기도합니다.
문제의 문제는 1937 년 일본이 남경을 공격하고 점령 한 중일 전쟁 초기에 중국군이 제복을 벗고 민간인의 옷을 강탈하고 게릴라가 된 사건입니다. 전쟁 포로, 많은 민간인 학살.
장개석이 12 월 7 일 초에 퇴각 한 이후 중국군의 지휘 체계가 무너져 조직적인 항복이 불가능 해 보였다.
난징시 안팎을 떠난 많은 중국 군인들이 제복을 벗고 민간인의 옷을 털고 게릴라가되어 탈출을 시도했습니다.
국제법에 따라 그러한 게릴라는 군인으로서 교전 할 권리가 없었으며 그들이 항복 할 경우 전쟁 포로의 처우를받을 자격이 없었습니다.
이전 영역의 "모순에 의한 증명"섹션에서 언급 한 바와 같이 양측이 존재할 수 없다는 사실의 예로서 아래에 별표가 표시된 몇 가지 예가 나와 있습니다.
☆ 난징 함락 당시 약 150 명의 언론인과 카메라 오퍼레이터가 일본군과 동행했습니다.
그러나 그들 중 누구도 그러한 학살을 목격하지 않았습니다.
일본군이 난징 시민들에게 식량과 기타 물품을 나눠주는 모습이 담긴 보도 만 있고, 시민들은 기뻐하고있다.
동행하는 언론인은 일본 언론인, Reuters, AP 및 기타 서양 언론인입니다.
난징의 점령을 기록한 U.S. Paramount News의 영화 제작진과 영국 영자 신문 인 North China Daily News의 기자도있었습니다.
그러나 그들 중 누구도 학살에 대해보고하지 않았습니다.
대신,보고 된 유일한 것은 난징 시민들의 사진과 함께 일본군이 식량과 기타 물품을 난징 시민들에게 나눠주는 광경이었습니다.
도쿄 니치 니치 신문의 카메라맨 가나자와 요시오 씨도 '난징 주변을 걸으며 학살을 본 적이 없다'고 증언했다.
아사히 신문은 "난징이 평화를 되찾다"라는 제목으로 성 사진을 실었다.
☆ 일본의 난징 침공 후 2 년 만에 결성 된 왕 차오 밍 (王 精衛) 대통령 정권도 난징 대학살에 대해 언급하지 않았다.
학살이 실제로 일어났다면 정권은 이것을 세계에 알렸을 것입니다. 그러나 결코 그렇지 않았습니다.
☆ 당시 난징 주재 미국 영사관 제임스 에스피 부영사가 넬슨 존슨 미국 대사에게 보낸 보고서는 그러한 학살에 대해 언급하지 않았습니다.
그 이후로 미국이 반일 이었기 때문에 그 사실을 감추기위한 어떤 꾸밈도 없었을 것입니다.
☆ 중국 국민당의 「중앙 선전부의 국제 선전 활동 총괄」(1941)에는 일본군에 의한 민간인 학살과 포로 학살에 대한 언급이 없습니다.
☆ 중국 국민당 중앙 선전부에서 거의 매일 개최 한 기자 회견에서 남경 학살은 언급조차하지 않았다.
☆ 장제스가 외국 언론인과 함께 개최 한 수백 건의 기자 회견에서 난징 학살에 대한 언급이 없었습니다.
도쿄 재판소에 30 만 명의 피해자가 언급되었지만 근거가없고 과장된 수치 다.
전쟁 후 GHQ가 일본 신문에 게재 한 "태평양 전쟁의 역사"조차도 그 수치를 20,000으로 기록했습니다.
300,000 명은 히로시마와 나가사키의 원자 폭탄 테러로 인한 사망자 수와 비슷합니다.
시체 처리 작업과 서류 작업만으로는 기록하지 않고 다룰 수있는 숫자가 아닙니다.
* 무라카미 하루키는 그 수가 30 만 개가 아니라 아마도 그 이상이라고 썼습니다.

일본 측에서이 사건에 대한 마조히즘적인 역사관으로 가득 찬 수많은 책과 회고록이 출판되었으며, 모두 일본의 중국 공격에 대한 문서 역할을합니다.
와세다 대학의 호라 토 미오 교수는 아사히 신문 기자 혼다 카츠 이치, 도쿄 교육 대학의 사부로 이에 나가 교수, 전 군인 고조 타도 코로, 전 군인 하지메 소네, 타마키 마츠오카 등을 제공했습니다.
2013 년 WAC, 와타나베 쇼이치 (Shoichi Watanabe)의 일본과 중국의 대결에서 발췌.
266 권
호라 토 미오 : 1966 년에 중국에 초청 된 와세다 대학 교수가 난징 대학살 데이터를 제공 받았습니다. 이 자료를 바탕으로 그는 난징 학살, 중일 제 2의 역사 자료, 남경 잔학 학살에 관한 중일 제 2 자료 등의 책을 출판했다. 그는 난징 학살이 역사적 사실이라고 주장했다.
Honda Katsuichi : 아사히 신문 기자; 학살을 취재하기 위해 1971 년에 약 40 일 동안 중국을 여행했습니다.
Saburo Ienaga : 동경 교육 대학 교수. 난징 학살이 역사적 사실 인 것처럼 교과서에 글을 쓰는 것 외에도 교과서 인증 시스템 자체가 위헌이라고 주장하는 소송을 제기하여 1965 년에 시작된 긴 Ienaga 교과서 재판으로 이어졌습니다.
타도 코로 코조 : 남경 붕괴 후 약 10 일 동안 살인을 자백하고 자신을 강간했지만 쓰쿠바 대학의 타다오 타다오 교수와 고쿠 가쿠 인 대학의 오하라 야스오 교수의 연구에 따르면이 남자는 10 일 동안 남경은 자신이 속한 부대가 가을 이틀 후 남경에서 이전 되었기 때문입니다.
그는 나중에 기자가 자신에게 흥미로운 말이 있는지 물었다 고 고백하여 결코 일어나지 않은 일에 대해 이야기했습니다.
덧붙여서, 그의 말은 Iris Chang의 The Rape of Nanjing에 있습니다 ...

저번에 뭔가를 찾고있을 때 발견 한 논문이있었습니다.
이 논문과 저자는 나에게 완전히 새로운 것이었다.
저자는 그의 논문의 우수성과 더불어 도쿄 대학 경제학 부를 졸업하고 ITOCHU Corporation의 정회원으로 활동하고 있다는 사실을 알게되어 안심이되었습니다.
직장에 입사 한 후 평생 가장 친한 친구 두 명을 만났습니다.
둘 다 ITOCHU Corporation의 직원이었습니다.
그들은 둘 다 매우 재능있는 사업가 였기 때문에 둘 다 회사에서 중요한 직책을 맡았습니다.
최근 몇 년간 회사 이름이 니와 우 이치로의 친 중국 성명과 함께 담론에 등장 해 불편 함을 느꼈다.
나는 무역 회사의 강점은 모든 직원이 어떤 의미에서는 소규모 기업의 관리자라는 사실에 있다고 느꼈습니다.
고객의 대차 대조표를보고 회사의 상태를 즉시 파악하는 능력은 놀랍습니다.
그는 또한 대규모 시공 견적의 모든 세부 사항을 확인하고 가격의 적합성을 결정할 수 있습니다. 이는 일본의 주요 도급업자조차도 깜짝 놀라게 할 것입니다.
나는 그들의 힘이 일본의 힘을 구성하는 지성, 힘, 에너지의 삼위 일체라고 느꼈다.
야쿠르트의 고향 인 진구 경기장 뒷망에는 이토추 (주)의 기업 메시지 "하나의 상인, 무수한 임무"가 걸려 있는데, 나는 항상 그것을 볼 때마다 옳다고 생각했다.
서두의 저자 인 타케히코 아오야기 씨는 간략한 전기를 가지고 있습니다.
그는 이전에 일본 국제 대학의 교수였습니다.
1934 년 군마현 기류시 출생. 기류 현립 기류 고등학교를 졸업.
1958 년 도쿄 대학 경제학 부를 졸업하고 주식회사 이토츄에 입사했습니다.
그는 ITOCHU Corporation 시드니 지점의 식품 부서 총괄 책임자, ITOCHU Corporation 본사 농산물 부서 총괄 책임자를 역임했습니다. ITOCHU 시스템 개발 공사 이사.
1985 년부터 1997 년까지 그는 ITOCHU와 NTT의 합작 회사 인 Nippon Telematique의 사장 겸 회장이었습니다.
1995 년부터 2006 년까지는 일본 국제 대학 GLOBECOM 부소장 겸 교수였으며, 2006 년부터 2016 년까지는 동 대학 객원 교수였습니다.
그의 연구 분야는 경제학, 경영학, 금융, 정보 사회, 법률, 국제 정치 및 보안 이론을 포함하며, 그는 사회 과학 분야에서 자칭 제너럴리스트입니다.
그는 "Videtex Strategy"(정보 과학), "Cyber ​​Surveillance Society"(통신 진흥 협회), "Personal Information Overprotection Destroys Japan"(Softbank Shinsho), "정보화 시대의 개인 정보 연구"(NTT 출판)의 저자입니다. , "미국인을 배신한 루즈 벨트가 일본을 전쟁으로 끌고 갔다"(하트 출판), "미국이 일본인을 심리적으로 무장 해제하기 위해 뒤틀린 일본의 역사"(하트 출판) 등.
나는 APA 그룹의 제 7 회 연례 "현대사 참관"경연 에세이에서 우수상을 수상한 Aoyanagi의 논문을 우연히 발견했습니다.
일본 국민과 세계인이 꼭 읽어야 할 책입니다.
아리마의 뇌 구조와 NHK / 워치 9를 통제하는 NHK 직원을 완벽하게 묘사하는 구절이 셀 수없이 많았습니다.
일본인이 WGIP의 먹이가 된 이유
첫째, WGIP가 교묘하게 은폐되어 비밀리에 처형 되었기 때문에 일본인은 세뇌 프로그램이 존재하는지조차 몰랐다.
미국은 민주주의 개념을 대대적으로 도입하여 전후 일본의 이념과 교육 철학의 중심이되었습니다.
일본인들은 그들의 본부 인 GHQ가 "발언의 자유"를 부정함으로써 세뇌를 장려했다는 사실을 절대 꿈에서 깨닫지 못했습니다.
둘째, GHQ가 전파 한 것의 대부분은 전쟁 비밀이었고 모든 군사 역사가 파괴 되었기 때문에 일본은 진실을 확인할 방법이 없었습니다.
이런 이유로 일본 국민은 군국주의 자들이 대중을 속이고 속였다고 의심 할 여지없이 믿었습니다.
셋째, 일본인이 의존하는 거의 모든 학자들이 도쿄 재판의 역사를 무의미하고 아낌없이 받아들이고이 견해를 적극적으로 지원하는 기사와 책을 출판하여 혼란을 가중시킵니다.
특히, 중요한 역사가들은 도쿄 재판소의 역사관을지지하고 일본의 과거사 전체를 부정적인 관점에서 본 일련의 연구를 발표했습니다.
이 학자들이 가르친 많은 학생들은 교사가되어 자녀들에게 역사에 대한 마조히즘 적 관점을 가르쳤습니다.
도쿄 재판의 역사에 대한 이러한 견해는 역사 교육을 통해 젊은 세대에게 주입되었습니다.

역사 연구회 회장 인 히 토츠 바시 대학 명예 교수 나가하라 케이지는 그의 저서에서“일본 역사는 도쿄 재판을 통해 역사를 제대로 볼 수 있도록 배웠다.
현실은 몇 가지 예외를 제외하고 역사 아카데미는 여전히 도쿄 재판의 역사적 관점을지지하는 데 확고하게 뿌리를두고 있습니다.
역사에 대한 적절한 이해를 주장하는 유일한 사람들은 역사의 세계와 관련이없는 학자들입니다.
비평가이자 영어 언어학자인 와타나베 쇼이치; 서양 경제학의 역사가 인 고 분유 (Kō Bun'yū); 한자 니시오, 독일 문학; 철학자 하세가와 미치코; 나카무라 아키라, 영문학; 저널리스트 Sakurai Yoshiko; 전 항공 자위대 장교, 우시오 마사토; Kobori Keiichiro, 독일 및 비교 문학; 나카니시 테루 마사, 유럽 외교사, 국제 정치; 후지와라 마사히코, 수학자, 수필가, 그리고 목록은 계속됩니다.
그들 모두는 자신의 직함을 뛰어 넘는 광범위한 지적 활동에 참여하고 있습니다.
법학 아카데미도 마찬가지입니다.
도쿄 재판의 본질은 그들이 승리 한 세력에 의한 불법 린칭이고 심지어 연합국조차도 그 타당성을 확신하지 못했다는 것입니다.
그러나 도쿄 제국 대학 법학부 국제법 교수 요코타 기자 부로 교수는 놀랍게도 도쿄 재판소가 합법적이라고 주장했다.
그는 The War Crimes를 썼고, 도쿄 재판소의 역사적 관점을 비판적으로 받아들이고 "거의 모든 국가에서 침략 전쟁을 국제 범죄로 간주하려는 강한 의도가 있다는 것은 의심의 여지가 없습니다"라고 말했습니다.
당시 많은 다른 법학자들이 눈사태처럼 뒤따라 WGIP의 힘을 엄청나게 만들었습니다.
계속됩니다.

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Была бумага, которую я обнаружил на днях, когда что-то искал.

2020年08月31日 17時20分05秒 | 全般

Далее следует продолжение предыдущей главы.
В этой главе также рассказывается, почему Китай держал в секрете историю вируса Ухань.
NHK и остальные японские СМИ отказываются разбираться в сути дела, подвергаясь дисциплинарным мерам со стороны Китая, показывая, насколько это глупо и отвратительно.
Это самые глупые и подлые люди, которые даже не имеют права обсуждать правду.
Нанкинская резня
По вопросу о Нанкинской резне было проведено много исследований, но сейчас нет времени вдаваться в подробности.
Тем не менее, я хочу отметить, что китайцы придерживаются образа мыслей «избегания» (сокрытия или избегания), что также омрачает резню в Нанкине.
В Китае лицо важнее правды.
Следовательно, все, что наносит ущерб нации и ее семьям, должно быть тщательно скрыто, даже если это означает искажение фактов.
Ложь для этой цели - это не только этически корректный поступок; это даже долг.
Речь идет об инциденте, произошедшем в 1937 году, в первые годы Второй китайско-японской войны, когда японцы напали и заняли город Нанкин, китайские войска сняли форму, ограбили мирных жителей и стали партизанами. военнопленные и массовые убийства мирных жителей.
Поскольку Чан Кай-ши отступил рано утром 7 декабря, система командования китайской армии рухнула, и организованная капитуляция казалась невозможной.
Многие китайские солдаты, оставшиеся в городе Нанкин и за его пределами, сняли форму, отняли у мирных жителей одежду, стали партизанами и попытались бежать.
Согласно международному праву, такие партизаны не имели права вступать в бой в качестве солдат и не имели права на обращение с военнопленными в случае их сдачи.
В качестве примера того факта, что обе стороны не могут существовать, как упоминалось в разделе «Доказательство от противного» предыдущей области, ниже показаны некоторые примеры, отмеченные звездочкой.
☆ Около 150 журналистов и операторов сопровождали японскую армию во время падения Нанкина.
Однако никто из них не был свидетелем такой бойни.
Есть только сообщения с фотографиями японских войск, раздающих еду и другие предметы гражданам Нанкина, и граждане счастливы это видеть.
Сопровождающие журналисты: в том числе японские журналисты, Reuters, AP и другие западные журналисты.
Была также съемочная группа из US Paramount News, которая задокументировала оккупацию Нанкина, и репортер британской англоязычной газеты North China Daily News.
Однако ни один из них не сообщил о массовом убийстве.
Вместо этого сообщалось только о том, как японские войска раздают еду и другие предметы снабжения гражданам Нанкина, с фотографиями радующихся жителей Нанкина.
Г-н Йошио Канадзава, оператор Tokyo Nichi Nichi Shimbun, также показал: «Я ходил по Нанкину и никогда не видел резни».
В «Асахи симбун» также была размещена фотография замка под названием «Нанкин возрождает мир».
☆ Режим президента Ван Чао-Мина (王 精衛), сформировавшийся через два года после японского вторжения в Нанкин, также не упоминал Нанкинскую резню.
Если бы резня действительно имела место, режим сообщил бы об этом всему миру, но этого не произошло.
☆ В отчете, направленном вице-консулом Джеймсом Эспи из консульства США в Нанкине в то время послу США Нельсону Джонсону, не упоминается о такой бойне.
Поскольку с тех пор США были антияпонскими, не было никакого приукрашивания, чтобы скрыть этот факт.
☆ В «Общем обзоре международной пропагандистской деятельности Центрального отдела пропаганды» (1941) Китайской националистической партии не было упоминания о резне мирных жителей и военнопленных японской армией.
☆ На пресс-конференциях, проводимых почти ежедневно Центральным отделом пропаганды Китайской националистической партии, Нанкинская резня даже не упоминалась.
☆ На сотнях пресс-конференций, проведенных Чан Кайши с иностранными журналистами, о Нанкинской резне не упоминалось.
Цифра в 300 тысяч жертв упоминалась в Токийском трибунале, но это необоснованная и преувеличенная цифра.
Даже в «Истории Тихоокеанской войны», опубликованной Ставкой в ​​японской газете после войны, указана цифра в 20 000 человек.
300 000 человек сопоставимо с количеством погибших от атомных бомбардировок Хиросимы и Нагасаки.
Работа по утилизации тел и оформление документов - это не та цифра, с которой можно было бы справиться без записи.
* Харуки Мураками писал, что это не 300 000, а может быть больше *.

Об этом инциденте с японской стороны были опубликованы многочисленные книги и мемуары, наполненные мазохистским взглядом на историю, и все они служат документами для нападения Японии на Китай.
Их предоставили профессор Томио Хора из Университета Васэда, репортер Асахи Симбун Хонда Кацуичи, профессор Иенага Сабуро из Токийского университета образования, бывший солдат Тадокоро Кодзо, бывший солдат Соне Хадзиме и Мацуока Тамаки.
Это из книги Шоичи Ватанабэ «Как Япония противостоит Китаю», WAC, 2013.
Стр. Решебника 266
Хора Томио: профессор университета Васэда, приглашенный в Китай в 1966 году и получивший информацию о том, что он назвал данными о Нанкинской резне. На основе этого материала он опубликовал серию книг, в том числе «Нанкинская резня», «Второй китайско-японский исторический материал» и «Второй китайско-японский материал о резне в Нанкине» и т. Д. Он утверждал, что Нанкинская резня была историческим фактом.
Хонда Кацуичи: репортер Асахи Симбун; путешествовал по Китаю в 1971 году около 40 дней, чтобы освещать бойню.
Сабуро Йенага: профессор Токийского университета образования. Помимо того, что он писал в учебниках, как будто Нанкинская резня была историческим фактом, он подал иск, в котором утверждал, что сама система сертификации учебников неконституционна, что привело к длительному судебному разбирательству по учебникам Иенаги, которое началось в 1965 году.
Кодзо Тадокоро: Хотя он сознался в убийстве и изнасиловании себя в течение примерно десяти дней после падения Нанкина, исследование профессора Тадао Такемото из Университета Цукуба и профессора Ясуо Охара из Университета Кокугакуин показало, что этот человек не мог оставаться в Нанкин на десять дней, потому что отряд, к которому он принадлежал, был переведен из Нанкина через два дня после падения.
Позже он признался, что репортер спросил его, есть ли у него что-нибудь интересное, чтобы сказать, поэтому он просто рассказал о вещах, которых никогда не было.
Между прочим, его слова есть в «Изнасиловании Нанкина» Ирис Чанг ...

Была бумага, которую я обнаружил на днях, когда что-то искал.
Эта статья и ее автор были для меня совершенно новыми.
Я с облегчением узнал, что автор был выпускником факультета экономики Токийского университета и активным членом ITOCHU Corporation, в дополнение к превосходному качеству своей статьи.
После того, как я начал работать, я встретил двух своих лучших друзей на всю жизнь.
Оба они были сотрудниками ITOCHU Corporation.
Оба они были чрезвычайно талантливыми бизнесменами, поэтому оба занимали важные должности в компании.
В последние годы название компании появилось в дискуссии наряду с прокитайскими заявлениями Уичиро Нива, что заставило меня чувствовать себя неловко.
Я чувствовал, что сила торговой компании заключается в том, что каждый из ее сотрудников в некотором смысле является менеджером малого бизнеса.
Их способность смотреть на балансы своих клиентов и мгновенно оценивать состояние компании была поразительной.
Он также может проверить каждую деталь крупного предложения на строительство и определить уместность цены, что было бы шокировано даже ведущими генеральными подрядчиками Японии.
Я чувствовал, что их сила - это триединство ума, силы и энергии, составляющих силу Японии.
Корпоративное послание ITOCHU Corporation «Один торговец, множество миссий» висит на задней части стадиона Дзингу, домашнего поля Якульта, и я всегда думал, что это совершенно правильно, когда я его видел.
Автор первого абзаца, г-н Такехико Аояги, имеет краткую биографию.
Ранее он был профессором Международного университета Японии.
Он родился в городе Кирю, префектура Гумма, в 1934 году. Он окончил среднюю школу Кирю префектуры Кирю.
Он окончил экономический факультет Токийского университета в 1958 году и присоединился к Itochu Corporation.
Он работал генеральным менеджером отдела пищевых продуктов Сиднейского отделения корпорации ITOCHU, генеральным менеджером отдела сельскохозяйственной продукции головного офиса ITOCHU Corporation. Как директор ITOCHU Systems Development Corporation.
С 1985 по 1997 год он был президентом и председателем Nippon Telematique, совместного предприятия ITOCHU и NTT.
С 1995 по 2006 год он был заместителем директора и профессором Международного университета Японии GLOBECOM, а с 2006 по 2016 год он был приглашенным профессором в том же университете.
Его области исследований включают экономику, бизнес-администрирование, финансы, информационное общество, право, международную политику и теорию безопасности, а также он самозваный универсал в социальных науках.
Он является автором «Videtex Strategy» (информатика), «Cyber ​​Surveillance Society» (The Telecommunications Advancement Association), «Чрезмерная защита личной информации разрушает Японию» (Softbank Shinsho), «Исследования конфиденциальности в век информации» (NTT Publishing) , «Рузвельт предал американский народ и втянул Японию в войну» (Heart Publishing), «История Японии, искаженная Америкой для психологического разоружения японцев» (Heart Publishing) и многие другие.
Я наткнулся на статью Аоянаги, получившую награду за выдающиеся достижения в седьмом ежегодном конкурсе APA Group «Правдивый взгляд на современную историю».
Это обязательное чтение для жителей Японии и остального мира.
Бесчисленные отрывки прекрасно описывают структуру мозга Аримы и сотрудников NHK, которые контролируют NHK / Watch 9, что вчера вечером я нашел по-настоящему непростительным.
Почему японцы так быстро стали жертвами WGIP
Во-первых, поскольку WGIP была хитроумно скрыта и выполнялась тайно, японцы даже не знали о существовании программы «промывания мозгов».
США широко представили идею демократии, поэтому она заняла центральное место в послевоенной идеологии и философии образования Японии.
Никогда в своих самых смелых мечтах японцы не осознавали, что штаб-квартира, его штаб-квартира, способствует «промыванию мозгов», отрицая «свободу слова».
Во-вторых, многое из того, что распространял Ставка, было секретностью военного времени, и, поскольку вся военная история была уничтожена, у японцев не было возможности проверить истину.
По этой причине японский народ без сомнения верил, что милитаристы лгали и обманывали общественность.
В-третьих, почти все ученые, на которых полагаются японцы, некритически и безоговорочно приняли историю Токийских процессов и даже опубликовали статьи и книги, которые активно поддерживают эту точку зрения, что усугубляет путаницу.
В частности, известные историки поддержали точку зрения Токийского трибунала на историю и опубликовали серию исследований, в которых вся история прошлого Японии рассматривалась в негативном свете.
Многие из учеников, которых учили эти ученые, стали учителями и учили своих детей мазохистскому взгляду на историю.
Такой взгляд на историю Токийского процесса был привит молодому поколению через историческое образование.

В своей книге Нагахара Кейджи, почетный профессор Университета Хитоцубаси, председатель Общества исторических исследований, заходит так далеко, что говорит, что «японскую историю научили правильно видеть историю благодаря Токийским процессам.
Реальность такова, что, за некоторыми исключениями, историческая академия все еще твердо придерживается своей исторической точки зрения на Токийские процессы.
Единственные люди, которые выступают за правильное понимание истории, - это ученые, не связанные с миром истории.
Ватанабэ Шоичи, критик и английский лингвист; Ко Бунъю, историк западной экономики; Nishio Kanji, немецкая литература; Хасэгава Митико, философ; Накамура Акира, английская литература; Сакураи Йошико, журналист; Усио Масато, бывший офицер Воздушных сил самообороны; Кобори Кейитиро, немецкая и сравнительная литература; Наканиши Терумаса, история европейской дипломатии и международная политика; Фудзивара Масахико, математик и эссеист, и этот список можно продолжать и продолжать.
Все они заняты широким спектром большой интеллектуальной деятельности, выходящей за рамки их титулов.
То же самое и с юридической академией.
Суть Токийских процессов заключалась в том, что они были незаконным линчеванием победоносных держав, и даже союзники не были уверены в их законности.
Однако профессор Кидзабуро Йокота, профессор международного права на юридическом факультете Токийского императорского университета и считающийся одним из ведущих мировых авторитетов в области международного права, неожиданно заявил, что Токийский трибунал был законным.
Он написал «Военные преступления», некритически принимая историческую перспективу Токийского трибунала и заявляя, что «я не сомневаюсь, что почти все страны твердо намерены рассматривать агрессивную войну как международное преступление».
Многие другие ученые-юристы в то время последовали их примеру, как лавина, сделав мощь WGIP огромной.
Продолжение следует.

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Il y avait un article que j'ai découvert l'autre jour alors que je cherchais quelque chose.

2020年08月31日 17時19分32秒 | 全般

Ce qui suit est une continuation du chapitre précédent.
Ce chapitre révèle également pourquoi la Chine a gardé secrète l'histoire du virus de Wuhan.
NHK et le reste des médias japonais refusent d'aller au fond des choses en étant disciplinés par la Chine, révélant à quel point c'est stupide et dégoûtant.
Ce sont les personnes les plus stupides et les plus viles qui ne sont même pas qualifiées pour discuter de la vérité de l'affaire.
Le massacre de Nankin
De nombreuses recherches ont été effectuées sur la question du massacre de Nankin, mais il n’ya pas le temps d’entrer dans tout cela ici.
Cependant, je tiens à souligner que les Chinois ont une mentalité d '«évitement» (se cacher ou éviter), qui a également jeté une ombre sur le massacre de Nankin.
En Chine, le visage est plus important que la vérité.
Par conséquent, tout ce qui porte préjudice à la nation et à ses familles doit être complètement caché, même si cela signifie contourner les faits.
Mentir dans ce but n'est pas seulement un acte éthiquement correct; c'est même un devoir.
Le problème en question est l'incident de 1937, au cours des premières années de la deuxième guerre sino-japonaise lorsque les Japonais ont attaqué et occupé la ville de Nankin, les troupes chinoises ont enlevé leurs uniformes, ont volé leurs vêtements aux civils et sont devenues des guérilleros, prisonniers de guerre et massacrés de civils en grand nombre.
Depuis la retraite de Chiang Kai-shek au début du 7 décembre, la chaîne de commandement de l'armée chinoise s'était effondrée et la reddition organisée semblait impossible.
De nombreux soldats chinois laissés à l'intérieur et à l'extérieur de la ville de Nanjing ont enlevé leurs uniformes, ont volé leurs vêtements aux civils, sont devenus des guérilleros et ont tenté de s'échapper.
En vertu du droit international, ces guérilleros n’ont pas le droit de s’engager en tant que soldats et n’ont pas droit au traitement des prisonniers de guerre s’ils se rendent.
A titre d'exemple du fait que les deux côtés ne peuvent pas exister comme mentionné dans la section «Preuve par contradiction» de la zone précédente, quelques exemples sont présentés ci-dessous, marqués d'une étoile.
☆ Environ 150 journalistes et cameramen accompagnaient l'armée japonaise lors de la chute de Nankin.
Cependant, aucun d'entre eux n'a été témoin d'un tel massacre.
Il n'y a que des rapports avec des photos de troupes japonaises distribuant de la nourriture et d'autres articles aux citoyens de Nanjing, et les citoyens sont heureux de le voir.
Les journalistes accompagnateurs sont: notamment les journalistes japonais, Reuters, AP et d'autres journalistes occidentaux.
Il y avait aussi une équipe de tournage de la Paramount News américaine qui a documenté l'occupation de Nankin, et un journaliste du North China Daily News, un journal britannique de langue anglaise.
Cependant, aucun d’entre eux n’a fait état du massacre.
Au lieu de cela, la seule chose rapportée était la vue de troupes japonaises distribuant de la nourriture et d'autres fournitures aux citoyens de Nankin, avec des photos des habitants de Nankin se réjouissant.
M. Yoshio Kanazawa, un caméraman de Tokyo Nichi Nichi Shimbun, a également déclaré: «J'ai marché autour de Nankin et je n'ai jamais vu de massacre».
Les Asahi Shimbun ont également porté une photographie du château sous le titre «Nanjing Revives Peace».
☆ Le régime du président Wang Chao-Ming (王 精衛), formé deux ans après l'invasion japonaise de Nanjing, n'a pas non plus évoqué le massacre de Nanjing.
Si le massacre avait effectivement eu lieu, le régime l'aurait fait savoir au monde, mais cela n'a jamais été le cas.
☆ Le rapport envoyé par le vice-consul James Espy du consulat américain à Nanjing à l'époque à l'ambassadeur américain Nelson Johnson ne faisait aucune mention d'un tel massacre.
Étant donné que les États-Unis étaient anti-japonais depuis lors, il n'y aurait eu aucun embellissement pour dissimuler le fait.
☆ Dans le "Aperçu général des activités de propagande internationale du Département central de propagande" (1941) du Parti nationaliste chinois, il n'y avait aucune mention du massacre de civils et du massacre de prisonniers de guerre par l'armée japonaise.
☆ Dans les conférences de presse tenues presque quotidiennement par le Département central de la propagande du Parti nationaliste chinois, le massacre de Nankin n'a même pas été mentionné.
☆ Dans des centaines de conférences de presse tenues par Chiang Kai-shek avec des journalistes étrangers, il n'y a pas eu de mention du massacre de Nankin.
Le chiffre de 300 000 victimes a été évoqué au Tribunal de Tokyo, mais c'est un chiffre infondé et exagéré.
Même l '«Histoire de la guerre du Pacifique», publiée par GHQ dans un journal japonais après la guerre, écrivait le chiffre à 20 000.
300 000 est comparable au nombre de morts suite aux bombardements atomiques d'Hiroshima et de Nagasaki.
Le travail d'élimination des corps et de la paperasse à lui seul n'est pas un nombre qui pourrait être traité sans être enregistré.
* Haruki Murakami a écrit que le nombre n'était pas de 300 000, peut-être plus *.

De nombreux livres et mémoires remplis d'une vision masochiste de l'histoire ont été publiés sur cet incident du côté japonais, qui servent tous de documents pour l'attaque chinoise du Japon.
Le professeur Tomio Hora de l'Université Waseda les a fournis, le reporter d'Asahi Shimbun Honda Katsuichi, le professeur Ienaga Saburo de l'Université d'éducation de Tokyo, l'ancien soldat Tadokoro Kozo, l'ancien soldat Sone Hajime et Matsuoka Tamaki.
Il est tiré de How Japan Confronts China, par Shoichi Watanabe, WAC, 2013.
Épisode 266
Hora Tomio: Professeur de l'Université Waseda, invité en Chine en 1966 et a reçu ce qu'il a appelé les données du massacre de Nankin. Sur la base de ce matériel, il a publié une série de livres, y compris le massacre de Nanjing, le deuxième matériel historique sino-japonais, et le deuxième matériel sino-japonais sur le massacre des atrocités de Nankin, etc. Il a affirmé que le massacre de Nankin était un fait historique.
Honda Katsuichi: journaliste Asahi Shimbun; voyagé à travers la Chine en 1971 pendant environ 40 jours pour couvrir le massacre.
Saburo Ienaga: Professeur à l'Université d'éducation de Tokyo. En plus d'écrire dans des manuels comme si le massacre de Nankin était un fait historique, il a intenté une action en justice affirmant que le système de certification des manuels lui-même était inconstitutionnel, ce qui a conduit au long procès des manuels d'Ienaga, qui a commencé en 1965.
Kozo Tadokoro: Bien qu'il ait avoué avoir commis un meurtre et s'être violé pendant une période d'environ dix jours après la chute de Nankin, les recherches du professeur Tadao Takemoto de l'Université de Tsukuba et du professeur Yasuo Ohara de l'Université de Kokugakuin ont souligné que cet homme n'aurait pas pu rester Nankin pendant dix jours parce que l'unité à laquelle il appartenait a été transféré de Nankin deux jours après la chute.
Il a avoué plus tard qu'un journaliste lui avait demandé s'il avait quelque chose d'intéressant à dire, alors il a simplement parlé de choses qui ne s'étaient jamais produites.
Soit dit en passant, ses paroles sont dans The Rape of Nanjing par Iris Chang ...

Il y avait un article que j'ai découvert l'autre jour alors que je cherchais quelque chose.
Cet article et son auteur étaient tout à fait nouveaux pour moi.
J'ai été soulagé d'apprendre que l'auteur était diplômé de la Faculté d'économie de l'Université de Tokyo et membre actif d'ITOCHU Corporation, en plus de l'excellence de son article.
Après mon entrée sur le marché du travail, j'ai rencontré deux de mes meilleurs amis pour la vie.
Ils étaient tous deux des employés d'ITOCHU Corporation.
Ils étaient tous deux des hommes d'affaires extrêmement talentueux, c'est pourquoi ils ont tous deux occupé des postes critiques dans l'entreprise.
Ces dernières années, le nom de l'entreprise est apparu dans le discours aux côtés des déclarations pro-chinoises d'Uichiro Niwa, ce qui m'a mis mal à l'aise.
J'ai senti que la force d'une société commerciale réside dans le fait que chacun de ses employés est, en un sens, le dirigeant d'une petite entreprise.
Leur capacité à regarder les bilans de leurs clients et à saisir instantanément l'état de l'entreprise était stupéfiante.
Il peut également vérifier chaque détail d'un grand devis de construction et déterminer la pertinence du prix, ce que même les principaux entrepreneurs généraux du Japon seraient consternés.
J'ai senti que leur force était la trinité de l'intelligence, de la puissance et de l'énergie qui composaient la force du Japon.
Le message d'entreprise d'ITOCHU Corporation, «Un marchand, une myriade de missions», est suspendu à l'arrière du Jingu Stadium, le terrain de Yakult, et j'ai toujours pensé que c'était exactement ce que je voyais.
L'auteur du paragraphe d'ouverture, M. Takehiko Aoyagi, a une brève biographie.
Il était auparavant professeur à l'Université internationale du Japon.
Il est né dans la ville de Kiryu, préfecture de Gunma, en 1934. Il est diplômé du lycée préfectoral de Kiryu Kiryu.
Il est diplômé de la faculté d'économie de l'Université de Tokyo en 1958 et a rejoint Itochu Corporation.
Il a été directeur général du département des produits alimentaires de la succursale de Sydney d'ITOCHU Corporation, directeur général du département des produits agricoles du siège social d'ITOCHU Corporation. En tant que directeur de ITOCHU Systems Development Corporation.
De 1985 à 1997, il a été président et président de Nippon Telematique, une joint-venture entre ITOCHU et NTT.
De 1995 à 2006, il a été directeur adjoint et professeur à l'Université internationale du Japon GLOBECOM, et de 2006 à 2016, il a été professeur invité dans la même université.
Ses domaines de recherche comprennent l'économie, l'administration des affaires, la finance, la société de l'information, le droit, la politique internationale et la théorie de la sécurité, et il est un généraliste autoproclamé en sciences sociales.
Il est l'auteur de "Videtex Strategy" (Science de l'information), "Cyber ​​Surveillance Society" (The Telecommunications Advancement Association), "Personal Information Overprotection Destroys Japan" (Softbank Shinsho), "Privacy Research in the Information Age" (NTT Publishing) , "Roosevelt a trahi le peuple américain et entraîné le Japon dans la guerre" (Heart Publishing), "L'histoire du Japon tordue par l'Amérique pour désarmer psychologiquement les Japonais" (Heart Publishing), et bien d'autres.
Je suis tombé sur un article d'Aoyanagi qui a remporté un prix d'excellence dans le septième essai du concours annuel «True View of Modern History» du groupe APA.
C'est une lecture incontournable pour le peuple japonais et le reste du monde.
D'innombrables passages décrivent parfaitement la structure cérébrale d'Arima et les employés de la NHK qui contrôlent NHK / Watch 9, ce que j'ai trouvé vraiment inexcusable l'autre soir.
Pourquoi les Japonais sont-ils si rapidement devenus la proie du WGIP?
Premièrement, parce que le WGIP était habilement dissimulé et exécuté en secret, les Japonais ne savaient même pas que le programme de lavage de cerveau existait.
Les États-Unis ont introduit l'idée de démocratie de manière importante, de sorte qu'elle a pris une place centrale dans l'idéologie et la philosophie éducative du Japon d'après-guerre.
Jamais, dans leurs rêves les plus fous, les Japonais ne se sont rendu compte que GHQ, son siège social, encourageait le lavage de cerveau en niant la «liberté d'expression».
Deuxièmement, une grande partie de ce que le GHQ propageait était le secret de guerre, et puisque toute l'histoire militaire avait été détruite, les Japonais n'avaient aucun moyen de vérifier la vérité.
Pour cette raison, le peuple japonais croyait sans aucun doute que les militaristes mentaient et trompaient le public.
Troisièmement, presque tous les universitaires sur lesquels s'appuient les Japonais ont accepté sans réserve et sans réserve l'histoire des procès de Tokyo et ont même publié des articles et des livres qui soutiennent activement ce point de vue, ajoutant à la confusion.
En particulier, des historiens importants ont soutenu la vision du Tribunal de Tokyo sur l'histoire et ont publié une série d'études qui ont examiné toute l'histoire du passé du Japon sous un jour négatif.
Beaucoup d'étudiants formés par ces savants sont devenus des enseignants et ont enseigné à leurs enfants une vision masochiste de l'histoire.
Cette vision de l'histoire des procès de Tokyo a été inculquée à la jeune génération par l'éducation historique.

Dans son livre, Nagahara Keiji, professeur émérite de l'Université Hitotsubashi, président de la Society for Historical Research, va jusqu'à dire que «l'histoire japonaise a appris à voir l'histoire correctement par les procès de Tokyo.
La réalité est qu'à quelques exceptions près, l'académie historique est toujours fermement ancrée dans son soutien à la vision historique des procès de Tokyo.
Les seules personnes qui plaident pour une bonne compréhension de l'histoire sont des érudits qui n'ont aucun lien avec le monde de l'histoire.
Watanabe Shoichi, critique et linguiste anglais; Kō Bun'yū, historien de l'économie occidentale; Nishio Kanji, littérature allemande; Hasegawa Michiko, philosophe; Nakamura Akira, littérature anglaise; Sakurai Yoshiko, journaliste; Ushio Masato, ancien officier de la Force aérienne d'autodéfense; Kobori Keiichiro, littérature allemande et comparée; Nakanishi Terumasa, histoire diplomatique européenne et politique internationale; Fujiwara Masahiko, mathématicien et essayiste, et la liste est longue.
Tous sont engagés dans un large éventail de grandes activités intellectuelles qui vont au-delà de leurs titres.
La même chose est vraie de l'académie juridique.
Le fond des procès de Tokyo était qu'il s'agissait de lynchages illégaux par les puissances victorieuses, et même les Alliés n'étaient pas sûrs de leur validité.
Cependant, le professeur Kizaburo Yokota, professeur de droit international à la faculté de droit de l'Université impériale de Tokyo et considéré comme l'une des principales autorités mondiales en matière de droit international, a étonnamment soutenu que le Tribunal de Tokyo était légitime.
Il a écrit The War Crimes, acceptant sans réserve la perspective historique du Tribunal de Tokyo et déclarant qu '"il n'y a aucun doute dans mon esprit qu'il y a une forte intention parmi presque toutes les nations de considérer la guerre d'agression comme un crime international".
De nombreux autres juristes à l'époque ont emboîté le pas comme une avalanche, rendant le pouvoir du WGIP formidable.
À suivre.

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Havia um papel que descobri outro dia quando estava procurando por algo.

2020年08月31日 17時17分06秒 | 全般

O que se segue é uma continuação do capítulo anterior.
Este capítulo também revela por que a China manteve a história do vírus Wuhan em segredo.
A NHK e o resto da mídia japonesa se recusam a ir ao fundo da questão sendo disciplinados pela China, revelando o quão tolo e nojento isso é.
Eles são as pessoas mais estúpidas e vis, que nem mesmo estão qualificadas para discutir a verdade do assunto.
O Massacre de Nanquim
Muita pesquisa foi feita sobre a questão do Massacre de Nanquim, mas não há tempo para entrar em tudo aqui.
No entanto, quero salientar que os chineses têm uma mentalidade de "evitar" (esconder ou evitar), o que também lançou uma sombra sobre o massacre de Nanquim.
Na China, o rosto é mais importante do que a verdade.
Portanto, qualquer coisa prejudicial para a nação e suas famílias deve ser completamente escondida, mesmo que isso signifique distorcer os fatos.
Mentir para esse fim não é apenas um ato eticamente correto; é até um dever.
A questão em questão é o incidente em 1937, durante os primeiros anos da Segunda Guerra Sino-Japonesa, quando os japoneses atacaram e ocuparam a cidade de Nanquim, as tropas chinesas tiraram seus uniformes, roubaram as roupas dos civis e se tornaram guerrilheiros, prisioneiros de guerra e civis massacrados em grande número.
Como Chiang Kai-shek recuou no início de 7 de dezembro, a cadeia de comando do exército chinês havia entrado em colapso e a rendição organizada parecia impossível.
Muitos soldados chineses deixados dentro e fora da cidade de Nanjing tiraram seus uniformes, roubaram as roupas dos civis, tornaram-se guerrilheiros e tentaram escapar.
De acordo com o direito internacional, tais guerrilheiros não tinham o direito de se engajar como soldados e não tinham direito ao tratamento de prisioneiros de guerra se eles se rendessem.
Como exemplo do fato de que ambos os lados não podem existir conforme mencionado na seção "Prova por contradição" da área anterior, alguns exemplos são mostrados abaixo, marcados com uma estrela.
☆ Cerca de 150 jornalistas e operadores de câmera acompanharam o exército japonês na época da queda de Nanquim.
No entanto, nenhum deles testemunhou tal massacre.
Existem apenas relatos com fotos de tropas japonesas distribuindo alimentos e outros itens para cidadãos de Nanjing, e os cidadãos estão felizes em ver isso.
Os jornalistas acompanhantes são: incluindo jornalistas japoneses, Reuters, AP e outros jornalistas ocidentais.
Havia também uma equipe de filmagem da Paramount News dos EUA que documentou a ocupação de Nanking, e um repórter do North China Daily News, um jornal britânico de língua inglesa.
Nenhum deles relatou o massacre, no entanto.
Em vez disso, a única coisa relatada foi a visão de tropas japonesas distribuindo alimentos e outros suprimentos aos cidadãos de Nanquim, com fotos do povo de Nanquim regozijando-se.
O Sr. Yoshio Kanazawa, cinegrafista de Tóquio Nichi Nichi Shimbun, também testemunhou: 'Eu andei por Nanquim e nunca vi um massacre.'
O Asahi Shimbun também carregava uma fotografia do castelo com o título "Nanjing revive a paz".
☆ O regime do presidente Wang Chao-Ming (王 精衛), que foi formado dois anos após a invasão japonesa de Nanjing, também não mencionou o Massacre de Nanjing.
Se o massacre realmente tivesse ocorrido, o regime teria dado a conhecer ao mundo, mas nunca foi o caso.
☆ O relatório enviado pelo vice-cônsul James Espy do consulado dos EUA em Nanjing na época ao embaixador dos EUA, Nelson Johnson, não fez nenhuma menção a tal massacre.
Como os EUA foram anti-japoneses desde então, não teria havido nenhum embelezamento para encobrir o fato.
☆ No "Panorama Geral das Atividades de Propaganda Internacional do Departamento Central de Propaganda" (1941) pelo Partido Nacionalista Chinês, não havia menção ao massacre de civis e ao massacre de prisioneiros de guerra pelo exército japonês.
☆ Nas conferências de imprensa realizadas quase diariamente pelo Departamento Central de Propaganda do Partido Nacionalista Chinês, o Massacre de Nanquim nem foi mencionado.
☆ Em centenas de coletivas de imprensa realizadas por Chiang Kai-shek com jornalistas estrangeiros, não houve menção ao Massacre de Nanquim.
O número de 300.000 vítimas foi mencionado no Tribunal de Tóquio, mas é um número infundado e exagerado.
Até mesmo a "História da Guerra do Pacífico", publicada pelo GHQ em um jornal japonês após a guerra, escreveu a cifra de 20.000.
300.000 é comparável ao número de mortes nos bombardeios atômicos de Hiroshima e Nagasaki.
O trabalho de se livrar dos corpos e da papelada por si só não é um número que poderia ser manuseado sem ser registrado.
* Haruki Murakami escreveu que o número não era 300.000, talvez mais *.

Numerosos livros e memórias cheios de uma visão masoquista da história foram publicados sobre esse incidente do lado japonês, todos servindo como documentos para o ataque do Japão aos chineses.
O professor Tomio Hora da Universidade Waseda os forneceu, o repórter Asahi Shimbun Honda Katsuichi, o professor Ienaga Saburo da Universidade de Educação de Tóquio, o ex-soldado Tadokoro Kozo, o ex-soldado Sone Hajime e Matsuoka Tamaki.
É de How Japan Confronts China, de Shoichi Watanabe, WAC, 2013.
Página 266
Hora Tomio: Professor da Universidade Waseda, convidado para a China em 1966 e recebeu o que chamou de dados do Massacre de Nanquim. Com base nesse material, ele publicou uma série de livros, incluindo O Massacre de Nanjing, Segundo Material Histórico Sino-Japonês e Segundo Material Sino-Japonês sobre o Massacre das Atrocidades de Nanquim, etc. Ele afirmou que o Massacre de Nanquim foi um fato histórico.
Honda Katsuichi: repórter Asahi Shimbun; viajou pela China em 1971 por cerca de 40 dias para cobrir o massacre.
Saburo Ienaga: Professor da Universidade de Educação de Tóquio. Além de escrever em livros didáticos como se o Massacre de Nanquim fosse um fato histórico, ele entrou com uma ação alegando que o próprio sistema de certificação de livros didáticos era inconstitucional, o que levou ao longo Julgamento de Livros de Ienaga, que começou em 1965.
Kozo Tadokoro: Embora ele mesmo tenha confessado cometer assassinato e estupro por um período de cerca de dez dias após a queda de Nanquim, a pesquisa do Professor Tadao Takemoto da Universidade de Tsukuba e do Professor Yasuo Ohara da Universidade Kokugakuin apontou que este homem não poderia ter permanecido em Nanquim por dez dias porque a unidade a que pertencia foi transferida de Nanquim dois dias depois da queda.
Mais tarde, ele confessou que um repórter lhe perguntou se ele tinha algo interessante a dizer, então ele apenas falou sobre coisas que nunca aconteceram.
A propósito, suas palavras estão em The Rape of Nanjing, de Iris Chang ...

Havia um papel que descobri outro dia quando estava procurando por algo.
Este artigo e seu autor eram totalmente novos para mim.
Fiquei aliviado ao saber que o autor era formado pela Faculdade de Economia da Universidade de Tóquio e membro ativo da ITOCHU Corporation, além da excelência de seu artigo.
Depois que entrei no mercado de trabalho, conheci dois dos meus melhores amigos para o resto da vida.
Ambos eram funcionários da ITOCHU Corporation.
Ambos eram empresários extremamente talentosos, por isso ambos ocuparam cargos importantes na empresa.
Nos últimos anos, o nome da empresa apareceu no discurso junto com as declarações pró-China de Uichiro Niwa, o que me deixou desconfortável.
Senti que a força de uma empresa comercial está no fato de que cada um de seus funcionários é, de certa forma, o gerente de uma pequena empresa.
A capacidade deles de olhar para os balanços dos clientes e compreender instantaneamente a situação da empresa era impressionante.
Ele também pode verificar todos os detalhes de uma grande cotação de construção e determinar a adequação do preço, algo que até mesmo os principais empreiteiros gerais do Japão ficariam chocados.
Senti que a força deles era a trindade de inteligência, poder e energia que constituía a força do Japão.
A mensagem corporativa da ITOCHU Corporation, "Um comerciante, uma miríade de missões", está pendurada na rede de trás do Estádio de Jingu, o campo de casa de Yakult, e eu sempre achei que estava exatamente certo sempre que a vi.
O autor do parágrafo de abertura, o Sr. Takehiko Aoyagi, tem uma breve biografia.
Ele foi professor da Universidade Internacional do Japão.
Ele nasceu na cidade de Kiryu, província de Gunma, em 1934. Ele se formou na Escola Secundária da Prefeitura de Kiryu.
Ele se formou na Faculdade de Economia da Universidade de Tóquio em 1958 e ingressou na Itochu Corporation.
Ele atuou como Gerente Geral do Departamento de Produtos Alimentares da Filial de Sydney da ITOCHU Corporation, Gerente Geral do Departamento de Produtos Agrícolas do Escritório Central da ITOCHU Corporation. Como Diretor da ITOCHU Systems Development Corporation.
De 1985 a 1997, ele foi presidente e presidente da Nippon Telematique, uma joint venture entre a ITOCHU e a NTT.
De 1995 a 2006, foi vice-diretor e professor da International University of Japan GLOBECOM, e de 2006 a 2016, foi professor visitante da mesma universidade.
Suas áreas de pesquisa incluem economia, administração de empresas, finanças, sociedade da informação, direito, política internacional e teoria da segurança, e ele é um generalista autoproclamado em ciências sociais.
Ele é o autor de "Videtex Strategy" (Information Science), "Cyber ​​Surveillance Society" (The Telecommunications Advancement Association), "Personal Information Overprotection Destroys Japan" (Softbank Shinsho), "Privacy Research in the Information Age" (NTT Publishing) , "Roosevelt traiu o povo americano e arrastou o Japão para a guerra" (Heart Publishing), "A história do Japão distorcida pela América para desarmar psicologicamente os japoneses" (Heart Publishing) e muitos outros.
Me deparei com um artigo de Aoyanagi que ganhou um prêmio de excelência no sétimo ensaio anual do Grupo APA "A Visão Verdadeira da História Moderna".
É uma leitura obrigatória para o povo do Japão e do resto do mundo.
Inúmeras passagens descrevem perfeitamente a estrutura do cérebro de Arima e os funcionários da NHK que controlam a NHK / Watch 9, o que eu achei verdadeiramente imperdoável na outra noite.
Por que os japoneses se tornaram vítimas tão rapidamente do WGIP
Primeiro, como o WGIP foi habilmente escondido e executado em segredo, os japoneses nem sabiam da existência do programa de lavagem cerebral.
Os EUA introduziram a ideia de democracia em grande estilo, por isso ela ocupou um lugar central na ideologia e na filosofia educacional do Japão do pós-guerra.
Nunca, em seus sonhos mais loucos, o povo japonês percebeu que o GHQ, sua sede, promovia a lavagem cerebral ao negar a "liberdade de expressão".
Em segundo lugar, muito do que o GHQ propagou foi segredo de guerra e, como toda a história militar foi destruída, os japoneses não tinham como verificar a verdade.
Por isso, os japoneses acreditavam sem dúvida que os militaristas mentiam e enganavam o público.
Terceiro, quase todos os acadêmicos nos quais os japoneses confiam aceitaram sem crítica e sem reservas a história dos Julgamentos de Tóquio e até publicaram artigos e livros que apóiam ativamente essa visão, aumentando a confusão.
Em particular, historiadores importantes apoiaram a visão da história do Tribunal de Tóquio e publicaram uma série de estudos que examinaram toda a história do Japão sob uma luz negativa.
Muitos dos alunos ensinados por esses estudiosos tornaram-se professores e ensinaram aos filhos uma visão masoquista da história.
Esta visão da história dos Julgamentos de Tóquio foi inculcada na geração mais jovem por meio da educação histórica.

Em seu livro, Nagahara Keiji, professor emérito da Universidade Hitotsubashi, presidente da Society for Historical Research, chega a dizer que "a história japonesa foi ensinada a ver a história corretamente pelos Julgamentos de Tóquio.
A realidade é que, com algumas exceções, a academia histórica ainda está firmemente enraizada em seu apoio à visão histórica dos Julgamentos de Tóquio.
As únicas pessoas que defendem uma compreensão adequada da história são os estudiosos que não têm nenhuma conexão com o mundo da história.
Watanabe Shoichi, um crítico e linguista inglês; Kō Bun'yū, um historiador da economia ocidental; Nishio Kanji, literatura alemã; Hasegawa Michiko, filósofo; Nakamura Akira, literatura inglesa; Sakurai Yoshiko, jornalista; Ushio Masato, ex-oficial da Força de Autodefesa Aérea; Kobori Keiichiro, literatura alemã e comparada; Nakanishi Terumasa, história diplomática europeia e política internacional; Fujiwara Masahiko, matemático e ensaísta, e a lista é infinita.
Todos eles estão engajados em uma ampla gama de grandes atividades intelectuais que vão além de seus títulos.
O mesmo é verdade para a academia jurídica.
A substância dos julgamentos de Tóquio era que eles eram linchamentos ilegais pelas potências vitoriosas, e mesmo os aliados não tinham certeza de sua validade.
No entanto, o professor Kizaburo Yokota, professor de direito internacional na Faculdade de Direito da Universidade Imperial de Tóquio e considerado uma das principais autoridades mundiais em direito internacional, surpreendentemente argumentou que o Tribunal de Tóquio era legítimo.
Ele escreveu The War Crimes, aceitando acriticamente a perspectiva histórica do Tribunal de Tóquio e declarando que "não tenho dúvidas de que há uma forte intenção entre quase todas as nações de considerar a guerra de agressão um crime internacional".
Muitos outros estudiosos do direito na época seguiram o exemplo como uma avalanche, tornando o poder do WGIP tremendo.
Continua.

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Es gab eine Zeitung, die ich neulich entdeckt habe, als ich nach etwas gesucht habe.

2020年08月31日 17時13分32秒 | 全般

Das Folgende ist eine Fortsetzung des vorherigen Kapitels.
Dieses Kapitel zeigt auch, warum China die Geschichte des Wuhan-Virus geheim gehalten hat.
NHK und der Rest der japanischen Medien weigern sich, der Sache auf den Grund zu gehen, indem sie von China diszipliniert werden, und zeigen, wie dumm und widerlich es ist.
Sie sind die dümmsten und gemeinsten Leute, die nicht einmal qualifiziert sind, die Wahrheit der Sache zu diskutieren.
Das Nanking-Massaker
Es wurde viel über das Thema des Nanking-Massakers geforscht, aber es ist keine Zeit, sich hier mit all dem zu befassen.
Ich möchte jedoch darauf hinweisen, dass die Chinesen eine Einstellung zur "Vermeidung" (Verstecken oder Vermeiden) haben, die auch einen Schatten auf das Massaker von Nanking geworfen hat.
In China ist das Gesicht wichtiger als die Wahrheit.
Daher muss alles, was der Nation und ihren Familien schadet, gründlich verborgen werden, auch wenn es bedeutet, die Fakten zu verbiegen.
Zu diesem Zweck zu lügen ist nicht nur eine ethisch korrekte Handlung; es ist sogar eine Pflicht.
Es handelt sich um den Vorfall von 1937 in den ersten Jahren des Zweiten Chinesisch-Japanischen Krieges, als die Japaner die Stadt Nanking angriffen und besetzten. Die chinesischen Truppen zogen ihre Uniformen aus, beraubten die Zivilisten ihrer Kleidung und wurden Guerillas. Kriegsgefangene und massakrierte Zivilisten in großer Zahl.
Seit Chiang Kai-shek sich am frühen 7. Dezember zurückzog, war die Befehlskette der chinesischen Armee zusammengebrochen, und eine organisierte Kapitulation schien unmöglich.
Viele chinesische Soldaten, die innerhalb und außerhalb der Stadt Nanjing zurückgelassen wurden, zogen ihre Uniformen aus, beraubten die Zivilisten ihrer Kleidung, wurden Guerillas und versuchten zu fliehen.
Nach internationalem Recht hatten solche Guerillas kein Recht, sich als Soldaten zu engagieren, und hatten keinen Anspruch auf Behandlung von Kriegsgefangenen, wenn sie sich ergaben.
Als Beispiel für die Tatsache, dass nicht beide Seiten existieren können, wie im Abschnitt "Beweis durch Widerspruch" des vorherigen Bereichs erwähnt, werden nachfolgend einige Beispiele gezeigt, die mit einem Stern markiert sind.
☆ Ungefähr 150 Journalisten und Kameramänner begleiteten die japanische Armee zum Zeitpunkt des Sturzes von Nanking.
Keiner von ihnen war jedoch Zeuge eines solchen Massakers.
Es gibt nur Berichte mit Bildern japanischer Truppen, die Lebensmittel und andere Gegenstände an Bürger von Nanjing verteilen, und die Bürger freuen sich darüber.
Begleitende Journalisten sind: darunter japanische Journalisten, Reuters, AP und andere westliche Journalisten.
Es gab auch ein Filmteam der US-amerikanischen Paramount News, das Nankings Besetzung dokumentierte, und einen Reporter der North China Daily News, einer britisch-englischsprachigen Zeitung.
Keiner von ihnen berichtete jedoch über das Massaker.
Stattdessen wurde nur der Anblick japanischer Truppen gemeldet, die Lebensmittel und andere Vorräte an die Bürger von Nanking verteilten, wobei sich Bilder der Menschen in Nanking freuten.
Herr Yoshio Kanazawa, ein Kameramann von Tokio Nichi Nichi Shimbun, sagte ebenfalls aus: "Ich bin um Nanking herumgelaufen und habe noch nie ein Massaker gesehen."
Die Asahi Shimbun trugen auch ein Foto der Burg unter dem Titel "Nanjing belebt den Frieden".
☆ Das Regime von Präsident Wang Chao-Ming (王 精衛), das zwei Jahre nach der japanischen Invasion in Nanjing gebildet wurde, hat das Massaker von Nanjing ebenfalls nicht erwähnt.
Wenn das Massaker tatsächlich stattgefunden hätte, hätte das Regime dies der Welt bekannt gemacht, aber dies war nie der Fall.
☆ In dem Bericht, den Vizekonsul James Espy vom US-Konsulat in Nanjing zu dieser Zeit an US-Botschafter Nelson Johnson sandte, wurde ein solches Massaker nicht erwähnt.
Da die USA seitdem anti-japanisch waren, hätte es keine Verschönerung gegeben, um die Tatsache zu vertuschen.
☆ In der "Allgemeinen Übersicht über die internationalen Propagandaaktivitäten der zentralen Propagandaabteilung" (1941) der Chinesischen Nationalistischen Partei wurden das Massaker an Zivilisten und das Massaker an Kriegsgefangenen durch die japanische Armee nicht erwähnt.
☆ In den Pressekonferenzen, die fast täglich von der zentralen Propagandaabteilung der Chinesischen Nationalistischen Partei abgehalten wurden, wurde das Nanking-Massaker nicht einmal erwähnt.
☆ In Hunderten von Pressekonferenzen von Chiang Kai-shek mit ausländischen Journalisten wurde das Nanking-Massaker nicht erwähnt.
Die Zahl von 300.000 Opfern wurde im Tokyo Tribunal erwähnt, ist jedoch unbegründet und übertrieben.
Sogar die "Geschichte des Pazifikkrieges", die GHQ nach dem Krieg in der japanischen Zeitung veröffentlichte, schrieb die Zahl auf 20.000.
300.000 sind vergleichbar mit der Zahl der Todesfälle durch Atombombenanschläge auf Hiroshima und Nagasaki.
Die Entsorgung der Leichen und der Papiere allein ist keine Nummer, die ohne Aufzeichnung gehandhabt werden könnte.
* Haruki Murakami schrieb, dass die Zahl nicht 300.000 war, vielleicht mehr *.

Zu diesem Vorfall wurden von japanischer Seite zahlreiche Bücher und Memoiren veröffentlicht, die mit einer masochistischen Sicht der Geschichte gefüllt sind. Alle dienen als Dokumente für Japans chinesischen Angriff.
Professor Tomio Hora von der Waseda-Universität stellte sie zur Verfügung, Asahi Shimbun-Reporter Honda Katsuichi, Professor Ienaga Saburo von der Bildungsuniversität Tokio, der ehemalige Soldat Tadokoro Kozo, der ehemalige Soldat Sone Hajime und Matsuoka Tamaki.
Es ist aus Wie Japan China konfrontiert, von Shoichi Watanabe, WAC, 2013.
Seite 266
Hora Tomio: Professor an der Waseda-Universität, 1966 nach China eingeladen und mit den so genannten Nanking-Massaker-Daten versorgt. Basierend auf diesem Material veröffentlichte er eine Reihe von Büchern, darunter das Nanjing-Massaker, das zweite chinesisch-japanische historische Material und das zweite chinesisch-japanische Material über das Nanking-Gräueltaten-Massaker usw. Er behauptete, das Nanking-Massaker sei eine historische Tatsache.
Honda Katsuichi: Asahi Shimbun Reporter; reiste 1971 etwa 40 Tage lang durch China, um über das Massaker zu berichten.
Saburo Ienaga: Professor an der Tokyo University of Education. Er schrieb nicht nur in Lehrbüchern, als wäre das Nanking-Massaker eine historische Tatsache, sondern reichte auch eine Klage ein, in der er behauptete, das Schulbuch-Zertifizierungssystem selbst sei verfassungswidrig, was zu dem langwierigen Ienaga-Lehrbuchprozess führte, der 1965 begann.
Kozo Tadokoro: Obwohl er gestand, über einen Zeitraum von etwa zehn Tagen nach dem Fall von Nanking Mord begangen und sich selbst vergewaltigt zu haben, wiesen Untersuchungen von Professor Tadao Takemoto von der Tsukuba-Universität und Professor Yasuo Ohara von der Kokugakuin-Universität darauf hin, dass dieser Mann nicht hätte bleiben können Zehn Tage lang Nanking, weil die Einheit, zu der er gehörte, zwei Tage nach dem Sturz von Nanking verlegt wurde.
Er gestand später, dass ein Reporter ihn gefragt hatte, ob er etwas Interessantes zu sagen habe, also sprach er nur über Dinge, die nie passiert waren.
Übrigens sind seine Worte in The Rape of Nanjing von Iris Chang ...

Es gab eine Zeitung, die ich neulich entdeckt habe, als ich nach etwas gesucht habe.
Dieses Papier und sein Autor waren für mich völlig neu.
Ich war erleichtert zu erfahren, dass der Autor ein Absolvent der Wirtschaftsfakultät der Universität Tokio und ein aktives Mitglied der ITOCHU Corporation war, zusätzlich zu der Exzellenz seiner Arbeit.
Nachdem ich in die Belegschaft eingetreten war, traf ich zwei meiner besten Freunde fürs Leben.
Sie waren beide Mitarbeiter der ITOCHU Corporation.
Sie waren beide äußerst talentierte Geschäftsleute, weshalb sie beide kritische Positionen im Unternehmen innehatten.
In den letzten Jahren ist der Name des Unternehmens neben Uichiro Niwas Pro-China-Aussagen im Diskurs aufgetaucht, was mich unwohl gefühlt hat.
Ich hatte das Gefühl, dass die Stärke eines Handelsunternehmens in der Tatsache liegt, dass jeder seiner Mitarbeiter in gewisser Weise ein Manager eines kleinen Unternehmens ist.
Ihre Fähigkeit, die Bilanzen ihrer Kunden einzusehen und den Zustand des Unternehmens sofort zu erfassen, war erstaunlich.
Er kann auch jedes Detail eines großen Bauangebots überprüfen und die Angemessenheit des Preises bestimmen, was selbst Japans führende Generalunternehmer entsetzt wären.
Ich hatte das Gefühl, dass ihre Stärke die Dreifaltigkeit von Intelligenz, Macht und Energie war, die Japans Stärke ausmachte.
Die Unternehmensbotschaft der ITOCHU Corporation "Ein Händler, eine Vielzahl von Missionen" hängt im hinteren Netz des Jingu-Stadions, Yakults Heimatfeld, und ich dachte immer, dass es genau richtig war, wenn ich es sah.
Der Autor des ersten Absatzes, Herr Takehiko Aoyagi, hat eine kurze Biografie.
Zuvor war er Professor an der International University of Japan.
Er wurde 1934 in Kiryu City, Präfektur Gunma, geboren. Er absolvierte die Kiryu Prefectural Kiryu High School.
Er absolvierte 1958 die Fakultät für Wirtschaftswissenschaften der Universität Tokio und trat der Itochu Corporation bei.
Er war General Manager der Lebensmittelabteilung der Niederlassung der ITOCHU Corporation in Sydney und General Manager der Abteilung für Agrarprodukte der Zentrale der ITOCHU Corporation. Als Direktor der ITOCHU Systems Development Corporation.
Von 1985 bis 1997 war er Präsident und Vorsitzender von Nippon Telematique, einem Joint Venture zwischen ITOCHU und NTT.
Von 1995 bis 2006 war er stellvertretender Direktor und Professor an der International University of Japan GLOBECOM und von 2006 bis 2016 Gastprofessor an derselben Universität.
Seine Forschungsgebiete umfassen Wirtschaft, Betriebswirtschaft, Finanzen, Informationsgesellschaft, Recht, internationale Politik und Sicherheitstheorie. Er ist selbsternannter Generalist in den Sozialwissenschaften.
Er ist Autor von "Videtex Strategy" (Informationswissenschaft), "Cyber ​​Surveillance Society" (Vereinigung zur Förderung der Telekommunikation), "Schutz vor persönlichen Informationen zerstört Japan" (Softbank Shinsho), "Datenschutzforschung im Informationszeitalter" (NTT Publishing). , "Roosevelt hat das amerikanische Volk verraten und Japan in den Krieg gezogen" (Heart Publishing), "Die Geschichte Japans, die von Amerika verdreht wurde, um die Japaner psychologisch zu entwaffnen" (Heart Publishing) und viele andere.
Ich bin auf ein Papier von Aoyanagi gestoßen, das im siebten jährlichen Aufsatz "True View of Modern History" der APA Group mit einem Award of Excellence ausgezeichnet wurde.
Es ist ein Muss für die Menschen in Japan und den Rest der Welt.
Unzählige Passagen beschreiben perfekt Arimas Gehirnstruktur und die NHK-Mitarbeiter, die NHK / Watch 9 kontrollieren, was ich neulich wirklich unentschuldbar fand.
Warum die Japaner so schnell WGIP zum Opfer gefallen sind
Erstens wussten die Japaner nicht einmal, dass das Gehirnwäsche-Programm existiert, weil die WGIP geschickt verborgen und im Geheimen ausgeführt wurde.
Die USA haben die Idee der Demokratie in großem Umfang eingeführt und damit einen zentralen Platz in der japanischen Nachkriegsideologie und Bildungsphilosophie eingenommen.
Niemals in ihren wildesten Träumen wurde dem japanischen Volk klar, dass das GHQ, sein Hauptquartier, die Gehirnwäsche förderte, indem es die "Redefreiheit" verweigerte.
Zweitens war vieles, was das GHQ propagierte, das Kriegsgeheimnis, und da die gesamte Militärgeschichte zerstört wurde, hatten die Japaner keine Möglichkeit, die Wahrheit zu überprüfen.
Aus diesem Grund glaubte das japanische Volk ohne Zweifel, dass die Militaristen die Öffentlichkeit belogen und getäuscht hätten.
Drittens haben fast alle Akademiker, auf die sich die Japaner verlassen, die Geschichte der Tokyo Trials unkritisch und vorbehaltlos akzeptiert und sogar Artikel und Bücher veröffentlicht, die diese Ansicht aktiv unterstützen, was die Verwirrung noch verstärkt.
Insbesondere bedeutende Historiker unterstützten die Sicht des Tokyo Tribunal auf die Geschichte und veröffentlichten eine Reihe von Studien, die die gesamte Geschichte der japanischen Vergangenheit in einem negativen Licht betrachteten.
Viele der von diesen Gelehrten unterrichteten Schüler wurden Lehrer und brachten ihren Kindern eine masochistische Sicht der Geschichte bei.
Diese Sicht auf die Geschichte der Tokioter Prozesse wurde der jüngeren Generation durch historische Bildung vermittelt.

Nagahara Keiji, emeritierter Professor der Hitotsubashi-Universität, Vorsitzender der Gesellschaft für historische Forschung, sagt in seinem Buch sogar: "Die japanische Geschichte wurde durch die Tokio-Prozesse gelehrt, die Geschichte richtig zu sehen.
Die Realität ist, dass die historische Akademie mit wenigen Ausnahmen immer noch fest in ihrer Unterstützung der historischen Sichtweise der Tokioter Prozesse verwurzelt ist.
Die einzigen Menschen, die für ein angemessenes Verständnis der Geschichte eintreten, sind Gelehrte, die keine Verbindung zur Welt der Geschichte haben.
Watanabe Shoichi, Kritiker und englischer Linguist; Kō Bun'yū, ein Historiker der westlichen Wirtschaft; Nishio Kanji, deutsche Literatur; Hasegawa Michiko, Philosoph; Nakamura Akira, englische Literatur; Sakurai Yoshiko, Journalist; Ushio Masato, ehemaliger Offizier der Air Self-Defense Force; Kobori Keiichiro, deutsche und vergleichende Literatur; Nakanishi Terumasa, europäische diplomatische Geschichte und internationale Politik; Fujiwara Masahiko, Mathematiker und Essayist, und die Liste geht weiter und weiter.
Alle von ihnen sind an einer Vielzahl großartiger intellektueller Aktivitäten beteiligt, die über ihre Titel hinausgehen.
Gleiches gilt für die Rechtsakademie.
Die Substanz der Tokyo Trials war, dass es sich um illegale Lynchmorde durch die siegreichen Mächte handelte, und selbst die Alliierten waren sich ihrer Gültigkeit nicht sicher.
Professor Kizaburo Yokota, Professor für Völkerrecht an der Rechtsfakultät der Kaiserlichen Universität Tokio und als eine der weltweit führenden Autoritäten für Völkerrecht angesehen, argumentierte jedoch überraschenderweise, dass das Tribunal von Tokio legitim sei.
Er schrieb The War Crimes, akzeptierte unkritisch die historische Perspektive des Tokyo Tribunal und erklärte: "Ich habe keinen Zweifel daran, dass fast alle Nationen die starke Absicht haben, den Angriffskrieg als internationales Verbrechen zu betrachten."
Viele andere Rechtswissenschaftler folgten zu dieser Zeit wie eine Lawine, was die Macht der WGIP enorm machte.
Fortsetzung folgt.

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分担金の支払いを存続すべきかどうかを再検討する位の強固な姿勢を示すべきだ。日本の国連至上主義は、国連内部では軽く見られているだけなのだ。

2020年08月31日 16時51分40秒 | 全般

以下は前章の続きである。
第四章 自虐史観の呪縛から脱却するために
日米安全保障条約第5条:「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危機に対処するように行動することを宣言する。
■ 情報戦争対策 ~もっと毅然として積極的に
そろそろ自虐史観が如何に国家に対する忠誠義務に反し、国際的に軽蔑されているかに気付くべきである。
そのためには:
(一)政府は歴代政権の見解を踏襲するのを止めよ。
従前からの政府の公式な立場は「反省と謝罪」であり、政府はこれを継承する立場を取ってきた。しかし既に限界である。
海外で問題が生じた場合、在外公館は本国から「既に謝罪していると説明をして、穏便に解決するように」との訓令を受けるのが常である。
これでは民間が是正運動を進めても、足を引っ張るだけだ。
今後は、むしろ“厳重に抗議をして、大々的に騒ぎ立てること”、との指示を出すべきだ。
少なくとも当該案件が疑義に満ちた紛争中であることを国際的に知らしめなければならない。
(二)いわれなき非難を浴びた時は、機会がある毎に堂々と反論をするべきだ。
そして積極的に衝突や混乱を作り出す。
周囲も発言者を決して非難してはならない。
国際的な理解を得るのは、そうした衝突や混乱の向こう側にあるので、それを飛び越えることも迂回することもできない。
一番、害があるのは「穏便な大人の態度」だ。
(三)河野談話は、本人が取り消して、世界に対して「談話は、韓国の要望を受け入れて早期に政治的決着をつけるための虚言だった」と言明してもらいたい。
交渉当時の韓国側の担当官の氏名や、非公式に申し入れてきた内容も明らかにする。
グレンデールの慰安婦像問題やパリの漫画際、更には国連の人権関連の委員会で、政府代表や民間団体が真実の説明を行っても、相手は河野談話や歴代の首相の謝罪と矛盾するではないか、といって受け付けてくれない。
このままでは河野談話は永久に日本と日本人を侮辱し続ける。
(四)正しい情報発信を国外むけには、できるだけ多くの言語で根気よく発信を続けることが重要だ。*当欄の重要性そのものだろう*
筆者も会員の末席をけがしている「史実を世界に発信する会」は、現在では日本で唯一の外国語による情報提供運動である。
そのデータベースには十分に活用可能な資料が揃っている。
国内向けには、第一章の「WGIPの実施」の箇所で触れたフーバー米大統領の『裏切られた自由(Freedom Betrayed)』の邦訳を何らかの方法で早期に刊行すべきだ。
日本人の自虐史観の治癒に有効だ。
■ 教育対策 ~英国の「1988年教育改革法」を見倣え
ここは国家百年の計を以って、長期的に教育改革から手を付けてゆくしかないだろう。
「近現代史」を学校で教えることが文科省で検討されているが誠に結構なことだ。
まず教科書問題だ。
執筆者の反日姿勢、および検定の姿勢に問題があることは論を俟たないが、妥当な教科書ができつつあるにもかかわらず、殆ど採用されていない。
最も重要なのは採択権の問題だが、地方自治体の首長でも口を出せないのが現状だ。
サッチャーを見倣って英国式に是正すべきである。
英国は、歴史的に古くから世界各地に植民地を持って搾取を行っていたので、その反省から学童に対する自虐史観の刷り込みを徹底的に行った。
当時の英国教職員組合と労働党が主導して作った「1944年教育法」は、いわば自虐史観・推進法であった。
そうした自虐史観教育は、いわゆる英国病を深刻化させつつあった。
これは20世紀になってからサッチャー首相の決断によって是正された。
サッチャーは「歴史には光と影がある、事実をバランスよく子供の発達段階に応じて教えるべきだ」と述べ、「自国が犯罪国家だとの罪の自意識が精神の基盤に組み入れられると、その国は衰弱しやがては滅亡する」と主張した。
だが、英国教職員労働者連盟の激しい抵抗にあった。
教師は半年間もストをしたり、国会へ向けたデモを行ったりするなど、徹底的に抗戦をしたが“鉄の”サッチャーはこれに屈せずに、ついに「1988年教育改革法」を成立せしめた。
この改革法において、英国は教育内容の決定とその実施の最終的責任を、地方や教育現場から取り上げて国が持つことを明確にし、教育水準の向上と自虐的偏向教育の是正の二つの政策を断行したのである。教科書の採択権限問題:雑誌「正論」平成9年(1997)『教科書採択の内幕』長谷川潤
■ 国連対策 ~国連の侮辱的勧告に対して日本は撤回と謝罪を要求せよ
現在、国連の人権関連の諸機関は、日本人が自虐史観を発揮する舞台となっている。
国連の主要機関のうちの「経済社会理事会」およびその傘下の各種委員会は、国連憲章第71条によって、資格を有するNGOと直接協議をすることができる。
特に人権理事会は、慰安婦に関するクーマラスワミー報告書に関して前述の通り屈辱的かつ脅迫じみた勧告を突き付けてきている。
また、これとは別に2014年7月に行われた自由権規約委員会(総会の補助機関)によるNGOヒアリングには反日左翼団体などが多数参加していた。
朝鮮学校の高校無償化除外問題を人権侵害であると訴えるチマチョゴリを着た日本の朝鮮大学校の女子学生や、特定秘密保護法案、慰安婦問題について日本が人権を侵していると訴える団体だ。
もし国連がこれを取り上げたら明らかな内政干渉になる。
人権問題は民主主義国家の重要課題であり、それを決めるのは主権者たる国民を代表する国会と政府だ。
国連ではない。
一方、国連安全保障理事会(以下、単に安保理と称す)はアジアの安全保障問題には何の役割も果たせないままだ。
日本は安保理の常任理事国にもしてもらえない。
さらに、国連憲章第53条、及び第107条により、日本はいまだに“敵国”という位置づけだ。
中国からは、国連の主要機関:総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、及び事務局がある。国連憲章第七十一条〔民間団体〕:経済社会理事会は、その権限内にある事項に関係のある民間団体と協議するために、適当な取極を行うことができる。この取極めは、国際団体との間に、また、適当な場合には、関係のある国際連合加盟国と協議した後に国内団体との間に行うことができる。
国連の敵国条項:日本とドイツは平成七年(一九九五)の国連総会で敵国条項の削除を提案して賛成多数を得たが、加盟国の批准(三分の二・百二十八ヵ国)を得ていないためにまだ実現していないし、その目途も立っていない。憲章で「敵国だった国が、戦争により確定した事項に反したり、侵略政策を再現する行動等を起こした場合、国連加盟国は安保理の許可が無くとも、当該国に対して軍事的制裁を課すことが容認される」と脅迫されている始末だ。残念だが、これが国連の正式のポジションなのだ。
日本は、こうした問題点にもかかわらず多額の分担金(米国に次いで第2位)を負している。
律義な日本は唯々諾々として毎年負担金全額を遅滞もなしに支払っている。
こんなことでは国際社会では尊敬されるわけではなく、軽くみられるだけだ。
人権問題では既に日本は侮辱的な勧告を受けている。
クーマラスワミー報告書、及び同様趣旨のマクドゥーガル報告書が言及する慰安婦問題は、全くの事実誤認だらけだ。
仮に百歩譲って真実であったにしても、既に70年以上も昔の話で現在では何の問題も起こっていない。
国連は、そんな暇があったら現在進行中の中国新疆ウィグル自治区におけるウィグル族への弾圧、中国のチベット侵略問題、シリア内乱における国民の虐殺、中東のイスラム過激派のテロ行為、米軍基地における韓国人慰安婦の韓国政府への集団訴訟、その他中東やウクライナにおける人権侵害問題、等々をしっかり取り上げるべきだろう。
日本は国連に対して両報告書の撤回と謝罪を断固として要求すべきだ。
もし受け容れられなければ、分担金の支払いや国連メンバーとして日本の国連通常予算の分担金:日本が支払っている分担金は、GDPの減少によ って少なくなっているが、それでも約11%の約2億7700万ドルで米国に次いで第2位だ。
第1位の米国の約半分で,第6位の中国の約3倍(2014年度)に相当する。
なお、安保理・常任理事国は5か国でそれぞれの分担金は次のとおりである。
米国(22%)、英国(5.6%)、仏(5%)、露(1.7%)、中国(3%)。 
マクドゥーガル報告書:1998年8月、国連人権委員会(現在の人権理事会)差別防止・少数者保護小委員会で採択された戦時性奴隷制に関する報告書。
報告者はゲイ・マクドゥーガルで、「武力紛争下の組織的強姦・性奴隷制および奴隷制類似慣行に関する最終報告書」のこと。
主な対象は、旧ユーゴスラビアでの戦争とルワンダ虐殺であるが、附属文書として日本の慰安婦問題についても取り上げている。
クーマラスワミー報告書に続くもので、慰安所は性奴隷制度の産物、「強姦所」であり女性の人権への著しい侵害の戦争犯罪であるので、日本政府は責任者の処罰と被害者への補償を行うべきであるという。分担金の支払いを存続すべきかどうかを再検討する位の強固な姿勢を示すべきだ。
日本の国連至上主義は、国連内部では軽く見られているだけなのだ。 (完)

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