文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

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川端は「文学的自叙伝」に書いた…私は東方の古典、とりわけ仏典を、世界最大の文学と信じている…

2020年10月08日 10時56分48秒 | 全般
2011-05-16に発信した章である。
5月15日、日経新聞16面、美の美から。    
有数の美術コレクターである川端康成は「死の意識」が強かった。
古賀春江の芸術に自分と似た嘆き、温かでさびしい「仏法のおさな歌」を感じとった。
「古賀春江(1895~1933年)の評価を決定づけたのは、川端康成1899~1972年)の筆の力ですね」 
古賀の故郷の福岡県久留米市にある石橋財団石橋美術館。
学芸課長の森山秀子さんに、日本のシュールレアリスム絵画の先駆者、古賀が38歳の若さで急逝したあと、どう評価されてきたかを聞くと、すぐに答えが返ってきた。
森山さんは昨年、石橋美術館や神奈川県立近代美術館で開催された「古賀春江の全貌」展の準備のために、これまで展開されてきた古賀に触れた文章を調べてみた。
すると川端の文章が古賀の芸術の本質を的確にとらえ、秀逸だったという。
「心にしみる美しい文章で絵を称えているだけではない。前衛画家、詩人としての古賀像を明確に打ち出し、古賀が新しい文学や思想に敏感であったことを強調しています」
川端には、古賀の死の直後に書かれた「末期の眼」、一周忌を記念した古賀の詩画集に寄せた「死の前後」、ノーベル文学賞記念講演「美しい日本の私」など、古賀に触れた随筆がいくつもある。
「死の前後」では、川端が古賀好江夫人と一緒になって、治療を拒否する古賀を説得して帝大病院に入院をすすめ、入院中はもとより、死後の葬式の世話まで焼いたことを回想し、病院での古賀の姿をこうつづる。
「故人は入院後も数十枚、多い日は一日に十枚も、水彩色紙を描いた。(中略)同時に判読にも苦しむ文字で、言葉の支離脱落の甚だしい詩を書き続けた。その柩には彩管と其の愛読の文学書の若干が納められた。故人をしてもし西欧にあらしめば、詩人、小説家などとも相携えて、前衛芸術運動の旗手であったろう」
川端の随筆で最も有名な「末期の眼」は、伊香保温泉で出会った竹久夢二の思い出に始まり、芥川龍之介、正岡子規、梶井基次郎、古賀といった早世した芸術家たちについて書いている。「けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」と書いた芥川の遺書に触れ、「あらゆる芸術の極意は、この『末期の眼』であろう」と述べている。
「古賀氏も自殺を思うこと、年久しいものがあったらしい。死にまさる芸術はないとか、死ぬることは生きることだとかは、口癖のようだったそうだが、これは西洋風な死の讃美ではなくて、寺院に生れ、宗教学校出身の彼に、深くしみこんでいる仏教思想の現れだと、私は解くのである」(「末期の眼」)  
「私と同じように心身共に弱かった古賀氏は、私とちがって大作力作をなしつつも、やはり私に似た嘆きが、胸をかすめることはなかったであろうか」(「同」)
嘆きとは何か。川端は古賀の絵に流れる「東方の古風な詩情」や「虚無を超えた肯定」を感じとった。
そしてこうつづる。「古賀氏は西欧近代の文化の精神をも、大いに制作に取り入れようとはしたものの、仏法のおさな歌はいつも心の底を流れていたのである。(中略)その古いおさな歌は、私の心にも通う」 (「同」)
川端は死と隣り合わせる芸術の恐ろしさ、死に立って生を見る芸術家の宿命を語っているように思える。
後に川端自身が逗子マリーナで遺書も残さず、ガス自殺してしまったことを思うと、川端の「死の意識」がいかに強かったかを想像できるだろう。
川端は1歳で父を、2歳で母を、10歳で姉を、14歳で祖父を亡くし、孤児として育った。
周囲から「葬式の名人」と呼ばれたほど、数多くの死を見つめて葬式に参列してきた。
川端文学の根底には、自分が幸福な家庭に育った人と比べて心がゆがみ、ひねくれているという「孤児の感情」がある。
名作「伊豆の踊子」も、色々な苦しみから逃れて旅に出た主人公が、旅芸人の一行と出会い、純粋な心の交流によって「孤児の感情」から脱していく物語といえる。
川端は「文学的自叙伝」に書いた。
「私は東方の古典、とりわけ仏典を、世界最大の文学と信じている。私は経典を宗教的教訓としてではなく、文学的幻想として尊んでいる」
…後略。
文・浦田憲治
*私は、川端康成には殆ど触れて来ませんでしたが、何と言う懐かしさ、と言う思いが去来した。
それらの事については後日に書きます。


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