吉田康一郎
@yoshidakoichiro
本日は通州事件が起きた日です。
この悲惨な事件を教訓に、同じ悲劇を二度と繰り返さない様にしなければなりません。
通州事件はなぜ防げなかったのか 新しい歴史教科書をつくる会副会長・藤岡信勝 2022.7.28 産経
7月29日は、北京東方の城郭都市・通州で日本人居留民225人が惨殺された通州事件の85周年に当たる。加害者は本来日本人の保護を任務とする親日地方政権の治安部隊(名称は保安隊)で、彼らは日本軍から武器・弾薬を支給され軍事訓練を受けていたにもかかわらず裏切ったのである。
酸鼻を極める蛮行
青竜刀と銃剣で武装した3千人の反乱部隊は午前零時を期して5つの城門を閉鎖し、電話線など通信手段を切断し、城内を密室状態にした上で凶行に及んだ。初めに日本軍守備隊、特務機関、警察署などを襲撃し、次いで日本人が居住する民家や旅館を襲った。
事件は計画的であった。日本人の家屋には予(あらかじ)めチョークで目印が付けられており、戸籍調査で摑(つか)んでいた家族を残らず路上に引き出して全裸にし、書くのもはばかられるような撲殺・強姦(ごうかん)・陰部刺突・眼球抉(えぐ)り取り・四肢切断・内臓引き出しなど酸鼻を極める蛮行の限りを尽くした。日本旅館・近水楼では陵辱・殺害された女性たちの血が流れ着いて豆腐状の固形物となった。
米人ジャーナリストのF・V・ウイリアムズは、「古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺(とさつ)として歴史に記録されるだろう」(『中国の戦争宣伝の内幕』)と書いた。詩人・西條八十は「通州の虐殺 忘るな七月二十九日!」と題する詩を書いた。
しかし、戦後の日本人は長い間、通州事件を歴史書に適切に記録することもなく、忘却の淵に追いやってきた。ところが近年、中国の軍事的脅威が差し迫って感じられるものとなり、国内に居住する中国人も80万人という現実の中で、通州事件を無視することは許されない状況が生まれている。
反乱の兆候を見逃す
今日、通州事件について考えるべき最大のポイントは、なぜ日本人が虐殺される事件を防げなかったのかという問題である。事件は2年前から計画され、首謀者の保安隊第一総隊長・張慶余は国民党軍から資金を受け取り、反乱の機会をうかがっていた。保安隊の中には中国共産党の活動分子が潜り込み細胞組織ができていた。
反乱の兆候はあった。事件の以前から日本人への殺意を煽(あお)る反日宣伝が強力に組織されていたのだ。中国人の妻として通州の中国人社会に住んでいた日本人女性・佐々木テンは、こう語った。
「日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人たちの間で、『日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ』という世論が高まってまいりました。その当時のよく言われた言葉は、『日本人は悪魔だ。その悪魔を懲らしめるのは支那だ』という言葉でした」(『通州事件 目撃者の証言』)
ところが、このような空気の変化を日本軍や日本人は知らない。佐々木テンはいたたまれず、何度も紙に事情を書いて、軍や日本旅館に投げ入れていたが何の反応もなかった。
当時、通州は日本人にとって最も安全な所とされ、戦火を逃れようと北京から避難してくる人もいたほどだ。日本軍の通州特務機関長も反逆者・張慶余の甘言と面従腹背を見抜けず、事実上ほしいままに操られていた。
通州事件における現地日本軍当局者の警戒心の欠如と失態は、安倍元首相を狙った凶弾を防ぐことのできなかった現代日本人の愚昧と不手際に通じるものがある。警備当局の手抜かりが許されないものであるならば、通州事件を防げなかった現地軍の失敗も許されないものである。
度外れの美徳は悪徳
これに加えて、通州事件において際立っていることは、あれほどの所業をなした中国人に対する日本人の対応である。朝鮮・台湾などを含む当時の日本統治下に暮らしていた6万人の中国人のうちの誰一人として、事件の報復を受けた者がいない。
それどころか、横浜の中華街では中国人を護(まも)るための自警団が組織された。現地・北京でも凶行を働いた末に流れてきた保安隊員に食事を与え、教え諭す日本人がいて、朝鮮人から「やりすぎだ」と批判される事例すらあった。こうしたことを、日本人の崇高な精神性を表す美徳として私たちは誇りにすべきだろうか。
私の考えは「否」である。これは国防上極めて危険なことなのである。なぜなら、日本人はどんな目にあわせても絶対に反撃しないと相手に信じ込ませるからである。度外れの美徳はもはや悪徳である。相手の攻撃性を抑止するには、こちらも牙を持たなければならない。この国際標準に合わせるよう日本人は意識的に努力して自己改造せねばならない。
5月に東京で、佐々木テンを主人公とする通州事件を題材にした演劇が初めて上演された。勇気を持って観劇したある女性は次の感想を書いている。「日本人の優れた人間性がアダになるとは! 世界にも稀(まれ)な心優しき日本人・日本民族を守る手段をどこに見いだせばよいのか。抑止力としての核武装しかないのでは」(ふじおか のぶかつ)