犬山から木曽川河口に至る約50kmの堤防が「お囲い堤」。
世界に類を見ない大堤を称して、「ミニ万里の長城」と言う人もいます。尾張平野をすっぽりと守ってくれています。
三河出身の家康は、日本全体を眺めたときの、尾張地域がもつ経済的、政治的、軍事的重要性を強く認識していました。
その尾張を守るために、丈夫な長い堤防を造らせたのです。
慶長13年(1608)からわずか2年で完成しました。
並行して、木曽から大量の木材を運搬し、名古屋城と城下町の建設を始めます。 その後、家康が最もかわいがったという九男・義直が初代藩主として入城するのです。
この仕事を請け負ったのが、伊奈忠次。
古くから三河松平家に仕え、その後も各地で検地、新田開発、河川改修に力を発揮しました。
「利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。
諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民たちはもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などをすすめ、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたという。」(Wikipedia)
ここだけ読んでも、忠次の功績が分かります。
仕事師・忠次は、最後の大仕事としてお囲い堤を完成し亡くなりました。