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篤姫の働きは?

2009-11-21 06:29:15 | 社会科こぼれ話
せっかくなので、昨日の続きです。
昨年、よく聞かれた問題です。

Q1「無血開城に向けた篤姫のめざましい働きは史実なのですか?」

Q2「官軍は中山道や東海道を東へ進みましたが、尾張徳川家は抵抗しなかったのですか?」

A1 実は私もよくわかりません。
昨年の大河ドラマで、時代考証を担当した大石 学教授が解説しています。  

「時代考証の作業の過程で明らかになった事実があります。それは、大奥が徳川家存亡の危機の中で、旗本ら家臣団に対して権力を発動したという事実です。」

そして、徳川家家臣への指示を出す「内政」と、自分たちのお付きの女中たちに書状を持たせ、東海道は川崎宿、中山道は大宮宿、甲州道中は府中宿へと、官軍の陣に派遣するという「外交」を展開したということです。

ドラマでは、西郷隆盛に江戸攻めをやめるように懇願していました。

どうやら、史実のようですね。

A2 これはするどい質問ですね。
本来名古屋城は、西からの江戸防衛の防波堤のはずです。
なぜこの時は機能しなかったのでしょうか。

実は、尾張徳川藩の歴史をひもとかなくてはなりません。

そもそも、家康の9男で、初代尾張藩主の義直は「尊皇思想」なのです。

そのため、以後の藩主は、時折江戸徳川家と対立していました。
義直と三代家光との対立は有名です。
尾張藩から将軍を出せなかったのも、このためとも言われています。

そして、幕末に最も権力のあった14代藩主慶勝も尊皇攘夷を主張していたのです。

当時は尾張藩内でも、朝廷派と佐幕派の対立が激化しましたが、慶勝は佐幕派を弾圧(青松葉事件)しています。
そして、東海道・中山道を抑え、官軍の江戸攻めを支援したのです。

しかし、新政府での尾張藩の扱いは、貢献度に見合ったものではありませんでした。
「名古屋県」という名前すらもらえませんでした。


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