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自由からの逃避のパターン【自由からの逃走#7】

2021-10-02 06:10:03 | 哲学の窓

哲学チャンネル より 自由からの逃避のパターン【自由からの逃走#7】を紹介します。

ここから https://www.youtube.com/watch?v=dbZ4VYAfXb0

エーリッヒ・フロム【自由からの逃走】を解説します。 #1 https://youtu.be/CpYhLjKpsb0 人間は合理的な生き物か?【自由からの逃走#2】 https://youtu.be/NjjfXBmo-5E 人類はいつ【個人】を手に入れたのか?【自由からの逃走#3】 https://youtu.be/X-9s6wJ0w9g 中世の人々と最後の絆【自由からの逃走#4】 https://youtu.be/WKtBCCdKRAc 宗教改革の功罪 【自由からの逃走#5】 https://youtu.be/6HfMk8vZfj4 資本主義によって人々が失ったもの【自由からの逃走#6】 https://youtu.be/T1HFy9T9i_U 本当の自由とは?【自由からの逃走#8】 https://youtu.be/m1Q65Gb56XU 【自由からの逃走】まとめ 書評 https://youtu.be/IRLJjZsqnlY 愛に対する勘違い【愛するということ(前)】 https://youtu.be/o8hvClzzXzg 本当の愛を手に入れるために【愛するということ(後)】 https://youtu.be/lcCSbOuFb5c ※書籍 自由からの逃走 https://amzn.to/3vbD6te 愛するということ https://amzn.to/3qy2Qwi

動画の書き起こし版です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こんにちは。哲学チャンネルです。 フロムは人間の健康に二つの意味を見出します。 一つは活動する社会における健康です。 その社会において正常であるか? これが健康を図る指針です。 社会的健康と言って良いでしょう。 もう一つは個人の成長と幸福のための最上の条件。 これを個人的健康と呼ぶことができます。 個人的健康は必ずしもその瞬間の社会的健康と一致しているわけではありません。 そのため、多くの場合両者には鋭い別れが発生します。 こうしたときに、個人の幸福における価値と規範に従って 自分のために戦い、決して社会に屈服しない人たちを 『芸術家』『神経症』『狂人』と呼ぶとフロムは考えました。 しかし通常人々は、社会的必要性に支配され 「社会的」健常者として過ごしていきます。 これらのギャップが限界に達したとき、 その状況からの逃走が行われます。 これがまさに【自由からの逃走】です。 その逃避のパターンの中でも社会的に影響があるとされるものが いくつかあるとフロムはいいます。 ここではそのうち2つをピックアップしたいと思います。 一つは【権威主義】 これは失われた第一次的な絆のかわりに新しい第二次的な絆を求めることです。 名著、カラマーゾフの兄弟にこのような指摘があります。 「人間という哀れな動物は、持って生まれた自由の賜物をできるだけ早く 譲り渡せる相手を見つけたいという強い願いだけしか持っていない」 つまり、人間は抱えている自由の重荷にそのうち耐えきれなくなって それを誰かもっと強大な依存先になすりつけたいと考えているのです。 大きな力に服従することで、孤独感をなくし安心感を得る。 自分には価値があると認識できる。など様々な効果が期待できます。 大枠では、いじめなどの問題の本質も このような権威主義的性質が影響しているのでしょう。 権威には大きく二つの種類があります。 一つは仕事量に応じて権威と被支配者の関係が近くなるものです。 学校での先生と生徒の関係がこれにあたりますね。 先生が生徒に教えるごとに先生と生徒の距離は近くなります。 もう一つは仕事量に応じて両者の距離が遠くなるものです。 資本主義における資本家と労働者の関係はこれにあたります。 仕事量が増えれば増えるほど両者の距離は広くなり、 格差は広まるばかりです。 後者の場合、被支配者は支配者への憎悪と無力感を納得させるため、 認知的不協和的に支配者を賞賛するようになる傾向があります。 このように、権威への強い憧れとそれに反した憎悪を持ち合わせ より強いものへ服従しようとする性格のことを フロムは【権威主義的性格】と呼びました。 彼らにおける勇気とは「不平を言わずに耐え忍ぶこと」 フロムは権威を作り上げたルターやヒトラーに関しても この権威主義的性格を持っていたと考えていたようです。 そして、権威主義的性格は特に人口の中間層に多いと考えられています。 宗教改革に関してもナチズムに関しても、熱狂的に服従したのは中間層でした。 ある意味ルターやヒトラーは彼らと性格を同じくする代弁者だったのかもしれません。 とはいえ、権威と戦う人々もいました。 いつの時代もそのような勇者が革命を起こしてきた事実もあります。 しかし、歴史が教える状況と、現代の状況には大きな違いがあります。 外的な権威とは戦えます。 しかし内的な権威とは戦えないのです。 戦うべき権威が権力や何かの集団であれば立ち向かうことができます。 しかし現代の権威は内的なもの、 すなわち世論や良心や常識や社会性です。 つまり、現代の権威は匿名なのです。 匿名の権威とは戦うことが出来ません。 必然、服従するのがもっとも楽な方法となるのはしょうがないことのように思います。 権威主義に逃げ込んだ人々は、無意識に大きな存在に依存し その存在に責任を負わせているとも言えるでしょう。 もう一つの逃走ルートは機械的画一性。 これは不安や無力感から逃れるために個人が個人であることを辞める傾向です。 文化的鋳型、つまり社会に求められるパーソナリティを完全に受け入れ 自動機械として生きていく方法だと表現されています。 本質的自己を封印して完全に社会的自己として生きる道を選ぶと 両者の矛盾は消え去り、当面の不安は無くなります。 これはまさに現代における多くの人々の状態を 言い当てたものではないでしょうか? 人類は進歩の過程で、より多くの自由を手にしてきました。 同様に個人は自分を手に入れ、自分の感情や思想や欲望は 全て自分自身のものだとされます。 しかしフロムはそれに疑問を投げかけます。 本当に自分の考えていることは自分の思想なのでしょうか。 それが気づかぬうちに刷り込まれた思想である可能性を否定することはできません。 自分が欲しいものは自分の欲求に根差しているのでしょうか? それが社会的な自我にとっての欲求であることを否定できません。 フロムはこれらのことを意識した上で 『本当の思想』『本当の欲求』を持つことが重要だと説きますが それは簡単なことではないですね。 これらのような逃避のパターンは ナチズムにおいてどのような影響を与えたのでしょうか。 ドイツのブルジョア、または労働者階級は ナチへ積極的な賛同はしませんでした。 とはいえ、取り立てた抵抗もせずに屈服してしまったのです。 これは機械的画一性の要素があると言えます。 彼ら、特に労働者は疲れていました。 1890年にドイツ社会主義労働者党が第一勢力になり大きな希望を抱きましたが 後年その夢は無残にも砕かれてしまいました。 彼らは疲弊していて、自由の責任に耐えることができなかった。 そしてヒトラーはドイツそのものになりました。 ヒトラーを批判することはドイツの批判であり ドイツの批判はすなわち自身の居場所の喪失だったのです。 孤独を選ぶか、ドイツを選ぶか。 疲弊し切った彼らは、安心感を得るために自己を諦めました。 一方で中産階級、特に下層中産階級はナチに熱狂しました。 かれらはまさに権威主義的性格の持ち主であったといえます。 強者への愛、弱者への憎悪。 ある意味、ヒトラーは彼らの代弁者でした。 事実彼は「わが闘争」の中で自身のことを 【とるにたりない人間】【名もない人間】と卑下しています。 1918年には第一次世界大戦とドイツ革命により君主制が崩壊しました。 君主制の崩壊はそれまでの家族性の変化を生み、 家族の権威は失墜しました。 1923年にはインフレーション。 その数年後に大不況。 彼らの生活はぼろぼろでした。 彼らは絆に飢えていたのです。 ヒトラーが掲げた偉大なるドイツの復興は 彼らの新しい希望となり、安心と帰属感を得るための服従先となったのです。 このように、フロムはナチズムの一因を 【自由からの逃走】にあったのではないかと考えます。 そして【自由からの逃走】は人間に備わった一つの機能なので いつの時代にも起こりうるものです。 これほどまでに人類全体が求め続けた自由。 その自由には恐ろしい副作用がありました。 では仮に、それが正しい理論だと仮定した場合に 我々はどのような生き方を選び取ってけいけば良いのでしょうか。 次回はフロムの考える本当の自由について解説します。 以上です。

 


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