2024年12月8日(日)、愛知ウォーキング城巡りクラブ(AWC) 「三河山中城めぐり」へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。
その様子を、数回にわたって紹介します。今日はその2回目。
山中城の場所です。いわゆる三河平野の東端に接しています。
アップしてみましょう。
東海道、吉良道、西郡道に囲まれた交通の要所です。
ここで、街道について整理しておきましょう。
まずは東海道。律令時代に設けられた五畿七道駅路の一つです。
江戸時代の図としては次のがわかりやすい。出典はここ https://www.aichi-now.jp/tokotoko/
アップしてみましょう。
山中城は、第37番宿の藤川宿と第36番宿の赤坂宿・第35番宿御油宿の間にあります。
赤坂宿と御油宿の距離は1.7キロメートルで近いのですが、当初は「赤坂御位」という大きな宿場でしたが分割したためです。
藤川宿
赤坂宿
御油宿
宿場は江戸時代に整備されたものですが、山中城が、交通の要所を抑えていたことは確かです。
続いて、吉良道です。
愛知県道324号生平幸田線の終点が、幸田町大草。
大草は、山中城をつくった西郷氏の本拠地です。
大草から見ると、山中城は鬼門。大切な守りの地です。
その後は幸田幡豆線あたりを通り吉良へ伸びています。
西郷氏について、「広報こうた」2012.11.1に次のようにあるので紹介します。
正楽寺西郷氏墓所と岡崎(大草)松平家
正楽寺の墓地には前回紹介した高力氏の墓石とならんで、 西郷氏の墓石が築かれています。 この西郷氏、あまり聞きなれませんが実は凄い一族なのです。 室町時代後期に西郷氏の当主であった稠頼は優れた能力の持ち主で、 周辺を支配下に治めながら、 岡崎市中心部から幸田町大草まで支配しました。 そして豊田市の松平郷から南下してきた松平氏に対抗するために、岡崎市明大寺(みょうだいじ)一帯に屋敷を築き、さらに乙川(おとがわ)の対岸に砦を築きました。この砦が後の岡崎城です。岡崎城を最初に築いた一族なのです。
この西郷氏の支配していた地域を引き継いだのが岡崎 (大草) 松平家でした。初代当主の松平光重(みつしげ)は父親の松平信光(のぶみつ)とともに西郷氏と戦います。敗れた西郷氏は岡崎城を松平信光へ譲り、 娘 (稠頼の孫)を光重に嫁がせて大草へ隠居
します。 これにより岡崎を本拠地とした松平家 『岡崎松平家』 が成立しました。 その後、 松平一族内の主導権争いが起こります。 岡崎松平家と安城松平家が戦い、 安城松平清康(徳川家康の祖父) に敗れた岡崎松平昌安は岡崎の地を明け渡し、娘を清康に嫁がせて大草へ隠居します。 これ以降、 大草松平家と呼ばれるようになります。
大草松平家はその後、三河一向一揆では反徳川家康側に付きます。 大草松平家が居城としていた大草城は正楽寺の北側一帯 (字寺
西)にあったと言われています。
正楽寺には町指定文化財として登録されている西郷稠頼と松平光重の肖像画が残されています。 一時代を築きながらも滅んでしまった家の菩提を弔うために納められたものなのかもしれません。
西郡道(にしごおりみち)とは、岡崎から蒲郡までの東海道の脇街道です。
山中城は、交通の要所を押さえていることがわかります。
山中城に向かって歩きます。
マンホールは岡崎城。
目指すはあの城山です。
最寄りのバス停は・・・
駐車所もあります。
川は当時は堀の代わり?
目指すは高さ195m、比高100mの本丸です
ズームアップしてみましょう。本丸に旗が見えます。
読めませんね。
2023.05.28 に撮影された方の写真です。出典 https://yamap.com/activities/24570623/article
文字起こししてみます。
岡崎市指定文化財
史跡 山中城跡 565㎡
岡崎城主 西郷信貞の居城であったが、大永四年(1524年)安祥に居城した松平清康の奇襲を受け、一夜にして落城した。その結果、信貞は清康に属し、岡崎城を明け渡すこととなった。
この城跡は、標高196mの山頂(主郭)を中心として、東・東北・西北に延びる尾根筋に曲輪を重ねた連郭式の構造を残す。県下最大級の規模をもつ山城である。現在残されている山城の中でも、その遺構をよくとどめており、貴重な史跡である。
交通の要所にあり、かつ、東西三河の境にあたるため、駿河今川義元の西三河進出、徳川家康の東三河進出の拠点となりました。
今回は、舞木口から登り、羽栗口へ降りてきます。
岡崎開市500年の旗
これについては、山中城が大きく関係しています。
山中城の歴史を、前回の東部市民センターの展示物「戦国時代の山城跡へ」から紹介します。
山中城址の歴史
山中城は室町時代の一四三三(永享五)年、西郷氏(岡崎松平氏)により築城されたと言われている。その頃より松平氏では安城松平氏が着々と勢力を伸ばしつつあった。
一五二四(大永四)年、安城松平清康(家康の祖父)は、家来大久保忠茂の献策で西郷信貞の守っている山中城を攻め落とした。この献策とは、敵の陣中に兵を紛れ込ませたうえ、激しい風雨の中、城を攻め落とすという奇策であった。
その後、一五四八(天文十七)年には小豆坂の合戦では今川氏の拠点となったが、六〇(永禄三)年、桶狭間の合戦で今川義元が討たれた後松平元康(後の徳川家康)が奪取し、再び松平氏の城となった。さらに、六三年には一向一揆で一向の門徒に占拠されるが、家康は翌年、和議を結んだ。そして豊臣秀吉の命による家康の関東移封で、九〇(天正十八年)に廃城となった。
岡崎開市五百年
松平氏の本拠地となる岡崎の歴史は、ここ山中城で西郷氏を破った以降と言われている。恩賞を尋ねられ功労者の大久保忠茂が、 岡崎での市銭免除を願い出たことから近郷の商人が岡崎城下に集まり、城下町の繁栄をもたらした。山上に立つ石碑には、郷土の偉人志賀重昂氏による次のような言葉が刻まれている。
大久保左衛門五郎忠茂、 世良田清ノ為メニ謀リテ山中城ヲ取り、尋にデ岡崎城ヲ取ル。清康岡崎ノ租税ヲ
挙ゲテ忠茂を賞ス。忠茂君命ト称へ、岡崎/租税ヲ免ズ。 四方ノ商売謳歌シテ岡崎二集ル。岡崎市ノ今日
アルハ二此二胚胎ス。 今岡崎開市四百年祭二際シ碑ヲ山中城址建テ、岡崎発祥ノ概梗ヲ伝フルコトトナス
大正十二(一九二三) 年十月
志賀重昂
この市銭免除 でできたのが連尺町です。
本ブログでも扱っています。
愛知の街道を行く シリーズ1「岡崎宿」-5- より
明日に続きます。
このブログでの他のシリーズは・・・
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