私なら奈良です。これまでに何度も訪れていますが、毎回新しい発見があります。
特に飛鳥は、家が増えたといっても、甘樫丘や大和三山などを見ると当時の風景が想像できます。
聖徳太子や蘇我馬子が大仏(写真左)を拝み、天武天皇や持統天皇が飛鳥浄御原宮(写真右)にたたずんでいたと考えるだけでロマンが香ります。
その後、藤原京を経て710年に都が平城京に移ります。
来年は遷都1300年という記念の年になるので、奈良の街は活気づいていました。
※ 平城京は、教科書では「へいぜいきょう」と読ませる例が増えています。当時は「ならのみやこ」と読んでいたようです。奈良市は「へいじょうきょう」を使うようです。
実は、都が平安京に移った後は、平城京は田んぼになっていました。当時は、都を移すと人も建物もそっくり引っ越ししていたのです。経済的にはかなりロスだと思うのですが、平安京でやっと定着します。
※ 考えてみれば、有力者が亡くなるたびに古墳を造営するのも経済的なロスでした。
当初は公共事業的な意味合いがあったかもしれませんが、長続きするわけがありません。徐々に小さくなり、仏教の普及により古墳も姿を消しました。
平城京は忘れ去られてしまいましたが、江戸時代の末になって、ようやく平城京のことを思い出した人がでてきました。
藤堂藩(三重県)の奉行所に勤めていた北浦定政が実測調査を行い、平城京の位置と規模が明らかになったのです。
光仁天皇陵(写真左)の前に、北浦定政の顕彰碑と墓があります。
その後、平城宮跡一帯の大部分は国の所有となり、保護されることになり、今につながっているのです。
平城宮跡を横切る近鉄奈良線の移設計画もあるほどです。北浦定政の行ったことは、今思うと偉大な一歩でした。
特に飛鳥は、家が増えたといっても、甘樫丘や大和三山などを見ると当時の風景が想像できます。
聖徳太子や蘇我馬子が大仏(写真左)を拝み、天武天皇や持統天皇が飛鳥浄御原宮(写真右)にたたずんでいたと考えるだけでロマンが香ります。
その後、藤原京を経て710年に都が平城京に移ります。
来年は遷都1300年という記念の年になるので、奈良の街は活気づいていました。
※ 平城京は、教科書では「へいぜいきょう」と読ませる例が増えています。当時は「ならのみやこ」と読んでいたようです。奈良市は「へいじょうきょう」を使うようです。
実は、都が平安京に移った後は、平城京は田んぼになっていました。当時は、都を移すと人も建物もそっくり引っ越ししていたのです。経済的にはかなりロスだと思うのですが、平安京でやっと定着します。
※ 考えてみれば、有力者が亡くなるたびに古墳を造営するのも経済的なロスでした。
当初は公共事業的な意味合いがあったかもしれませんが、長続きするわけがありません。徐々に小さくなり、仏教の普及により古墳も姿を消しました。
平城京は忘れ去られてしまいましたが、江戸時代の末になって、ようやく平城京のことを思い出した人がでてきました。
藤堂藩(三重県)の奉行所に勤めていた北浦定政が実測調査を行い、平城京の位置と規模が明らかになったのです。
光仁天皇陵(写真左)の前に、北浦定政の顕彰碑と墓があります。
その後、平城宮跡一帯の大部分は国の所有となり、保護されることになり、今につながっているのです。
平城宮跡を横切る近鉄奈良線の移設計画もあるほどです。北浦定政の行ったことは、今思うと偉大な一歩でした。