飛鳥の宮はどこにあったのでしょう?
確かに、平安京は京都御所、平城京は平城宮。
しかし、飛鳥は?と聞かれると困ってしまいます。
なぜなら、当時は、同じ宮を次の天皇が使うことはほとんどありませんでした。それどころか、一人の天皇が複数の宮をつくることもありました。
飛鳥時代の始まりとされる推古天皇は、蘇我氏の邸宅跡を利用した豊浦宮(写真左)で即位し、小墾田宮で本格的な体制を作ったと思われます。小墾田宮へ移ってから、すぐに冠位十二階が制定され、憲法十七条が発布されたからです。
もっとも、小墾田宮は現在のどこになるかは諸説有り、確定していません。
次の舒明天皇にいたっては、小墾田宮で即位し、飛鳥岡本宮に遷り、火災のため田中宮に遷り、厩坂宮を経て百済宮に遷っています。
当時は「死の穢(けが)れ」を避けたり、病気の流行、災害のたびに縁起を担いだりして遷都していたのでしょう。このあたりの事情は、次のサイトに詳しく載っています。写真左の出典もこのサイトです。
《参考》飛鳥の宮 http://sanzan.gozaru.jp/miya/miya-top.html
こうして、孝徳天皇の難波宮、天智天皇の近江大津宮を除いては、飛鳥の中だけで遷っていました。
次の藤原宮(写真右)も飛鳥の近くです。
この間、約100年間を飛鳥時代とよんでいるのです。
藤原宮では、持統、文武、元明と三代16年間にわたって都が置かれます。同じ宮で三代続くのは空前のことです。
組織が大きくなり、引っ越しもしづらくなったのでしょう。
その藤原宮は、発掘調査の結果、平城京・平安京をしのぐ、最大の都であったことが分かってきましたした。
この地で、大宝律令が出されたのです。
中央集権が進んできたことが分かります。
藤原京(写真右)の出典は
「藤原京CG再現プロジェクト」
http://www.nara-su.ac.jp/archives/fujiwaracg/
確かに、平安京は京都御所、平城京は平城宮。
しかし、飛鳥は?と聞かれると困ってしまいます。
なぜなら、当時は、同じ宮を次の天皇が使うことはほとんどありませんでした。それどころか、一人の天皇が複数の宮をつくることもありました。
飛鳥時代の始まりとされる推古天皇は、蘇我氏の邸宅跡を利用した豊浦宮(写真左)で即位し、小墾田宮で本格的な体制を作ったと思われます。小墾田宮へ移ってから、すぐに冠位十二階が制定され、憲法十七条が発布されたからです。
もっとも、小墾田宮は現在のどこになるかは諸説有り、確定していません。
次の舒明天皇にいたっては、小墾田宮で即位し、飛鳥岡本宮に遷り、火災のため田中宮に遷り、厩坂宮を経て百済宮に遷っています。
当時は「死の穢(けが)れ」を避けたり、病気の流行、災害のたびに縁起を担いだりして遷都していたのでしょう。このあたりの事情は、次のサイトに詳しく載っています。写真左の出典もこのサイトです。
《参考》飛鳥の宮 http://sanzan.gozaru.jp/miya/miya-top.html
こうして、孝徳天皇の難波宮、天智天皇の近江大津宮を除いては、飛鳥の中だけで遷っていました。
次の藤原宮(写真右)も飛鳥の近くです。
この間、約100年間を飛鳥時代とよんでいるのです。
藤原宮では、持統、文武、元明と三代16年間にわたって都が置かれます。同じ宮で三代続くのは空前のことです。
組織が大きくなり、引っ越しもしづらくなったのでしょう。
その藤原宮は、発掘調査の結果、平城京・平安京をしのぐ、最大の都であったことが分かってきましたした。
この地で、大宝律令が出されたのです。
中央集権が進んできたことが分かります。
藤原京(写真右)の出典は
「藤原京CG再現プロジェクト」
http://www.nara-su.ac.jp/archives/fujiwaracg/