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豊臣秀次切腹に新説…秀吉は命じず、身の潔白訴え自ら切腹か

2013-11-18 06:16:40 | 社会科関連情報

 ここから http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131117/wlf13111720580036-n1.htm

 秀次は自殺であるという新説が出されました。

 私もそうではないかと思います。そうあってほしいという願望かも・・・。

矢部准教授はこの日付について、「京都から高野山までは約130キロの距離がある。登り坂も厳しく、歩いて3日はかかる。13日に書かれた命令書を持って高野山まで多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。

 そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へあてた書状に着目。そこには「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されていた。「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えていたと思う」

 また、秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」文禄4年7月16日条には、「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す 無実ゆえかくのこと候のよし申すなり」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」という記述は、秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだ、と指摘。秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹したとみている。

 秀次が腹を切った青巌寺は、秀吉が生母の菩提(ぼだい)寺として寄進した寺院だった。秀吉には神聖な場所を汚されたという思いがぬぐえず、秀次の切腹後、その妻子を苛烈に処刑したことも、この怒りに基づくものだと理解できるという。


 この説だと、「秀次の切腹後、その妻子を苛烈に処刑したこと」は、今ひとつ理解できません。
 
太閤記にはフィクションの部分も多いとされ、新説を学術誌「国学院雑誌」の最新号に発表した矢部准教授は「太閤記の『秀次に謀反の動きがあった』という記述は、事態収拾のために秀吉と三成らが作り上げた後付けの公式見解だったのではないか」と推測している。

 織田・豊臣期の京都を研究している大阪市立大の仁木宏教授の話 「新説は日付のずれや史料の信憑性(しんぴょうせい)にこだわって導かれており、興味深い。ただ、根幹となる事実の解釈に恣意的(しいてき)な部分もあり、すぐに事実と認めることは難しい。議論を重ね、秀次の死と、その居宅だった聚楽第(じゅらくだい)破却の真相が解明されることを期待している」


 今後の議論に注目です。

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