とっつきづらい哲学や心理学の内容を、出来るだけわかりやすく完結に お伝えすることを目的としたチャンネルです。
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モーリス・メルロー=ポンティは1908年にフランスのロシュフォールに生まれました。 18歳、パリ高等師範学校に入学し、そこでサルトルやレヴィ=ストロースと知り合います。 21歳のときにフッサールの講義を受け、そこから現象学に傾倒します。 1949年にパリ大学の文学部の教授となり、1961年、53歳の若さで急死するまで 現象学の発展に尽力しました。 メルロー=ポンティの哲学は【両義性の哲学】などと言い表されます。 これは、どのような哲学なのでしょうか? 彼は科学に対して否定的でした。 主著である【知覚の現象学】では『科学は二次的な表現である』とし、 科学は知覚された世界の一つの規定でしかないと主張します。 このことからもわかるように、メルロー=ポンティは 知覚、そして知覚を可能とする身体を重要視します。 それまでの哲学においては、身体は蔑ろにされていました。 ドイツ観念論をはじめとして、人間は身体と精神に分けられ、 ほとんどの哲学者は精神のほうを重要視して研究をしていましたよね。 しかし、よく考えてみるとそれっておかしくて、 仮に精神が重要な研究対象だとしても、 それを生み出す知覚を司るのは紛れもなく身体であり、 それを無視して議論するのはある意味整合性が取れていないのです。 メルロー=ポンティの哲学の中心は身体です。 以後、哲学の興味は急激に身体に向き直るのですが、 そのきっかけを作ったことは哲学史への多大なる貢献です。 また、メルロー=ポンティは師であるフッサールの現象学にも批判を加えます。 フッサールは、現象学的還元によって人間の純粋意識を捉えようとしました。 しかし、メルロー=ポンティはそれは不可能なのではないか?と言います。 現象学では、人間が知覚したものを推論して表象される現象に対して、 その推論の行程が何よりも重要と考え、他の部分については判断停止して 純粋にその行程を研究しようと考えました。 しかし、メルロー=ポンティによると、知覚はその瞬間に意識を介在させてしまうため、 純粋な知覚を捉えることはできないらしいのです。 例えば、日本人が虹を見ると7色に見えますよね。 一方で台湾の原住民であるブヌン族などでは、虹を3色と表現します。 これは、実際に視覚の機能が違うのではなくて、 そのように信じられているから実際にそう見えているのです。 なぜそのような違いが現れるのか? 鍵はハイデガーが触れた『時間性』にあります。 人間は所属する共同体による時間の影響を必ず受けます。 わかりやすいのは教育ですね。 過去から流れるそのような情報のつながりによって、 その人それぞれの先入意識が構成されていくわけです。 そしてその意識は知覚の瞬間に本人の意図するところ以外で作用し、 原初の体験に含まれてしまう。 だからこそ、フッサールが目指したピュアな純粋意識を 捉えることはできないとメルロー=ポンティは考えたのです。 つまり、フッサールの着眼点は確かに素晴らしいけど、 その前にここ。知覚の部分を解決しないと、 その先には進めないのではないか。と考えたんですね。 その上でメルロー=ポンティは身体とは何か? について思考を深めます。 有名なのは幻覚肢の研究ですね。 事故や病気で四肢を失った人が、 本来ないはずの身体の一部を動かしている感覚を感じたり、 そこに痛みを感じたりすることがあります。 対応した身体の部位はすでにないわけですから、 その痛みや感覚は外的要因で発生しているわけではないとするのが普通です。 すると、その痛みや感覚は『精神』が引き起こしていると考えられるのです。 本来は外部的知覚で感じるはずの痛みが、精神によって引き起こされている。 このことから、彼は身体とは外部(客観)であり内部(主観)でもあるのではないか。と考えます。 つまり、身体とは精神と世界とを繋ぐ媒介である。 この媒介のことを【両義的な存在】と呼びます。 メルロー=ポンティは身体を両義的な存在として位置付け、 それをもとに知覚について深く研究しました。 この思想のことを【両義性の哲学】と表現するのですね。 その上で、彼は、主観と客観が同一のものであることを主張します。 例えば、自分の左手で、自分の右手を『掴んだ』とき、 『掴んでいる』という主観と『掴まれている』という客観が 同時に存在することになります。 これと同じような理屈で、 何かを見ているとき、実は見ている対象から見られている。 このような関係性が知覚すべてにおいて成り立つと考えます。 また、先ほど触れた時間性の観点から考えると、 ある共同体において、その時間性をもった自分が何かを見ることは 言い換えるとその共同体が自分を通してものを見ているとも表現できて これも主観と客観が分離できないことを表します。 この辺りに関しては正直な話、上手に説明できる気がしませんので、 ちょっと今回は逃げさせてください(笑) (死ぬまでに言語化できるレベルまで理解したいです・・・) ともかく、メルロー=ポンティはこのように哲学に身体という概念を付け加え、 それがその後の哲学に大きな影響を与えていくのでした。 とは言え、当時は同時期に現れたサルトルの実存主義に 世の中は熱狂していました。 そしてその後には構造主義が台頭します。 それらの限界が見え始めたときに、 メルロー=ポンティの哲学が再度脚光を浴びることになります。
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