哲学チャンネルより カントの道徳論【正義と善#5】を紹介します。
ここから https://www.youtube.com/watch?v=vX0oyYmAn2E
動画の書き起こし版です。
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こんにちは。哲学チャンネルです。 臓器売買、売春、自殺幇助。 これらの行為は『道徳的に』正しくない印象を感じさせます。 しかし、個人の自由という観点から捉えると それが双方の合意の上での行為だった場合 その行動の自由を制限することは正しくないような気もします。 サンデルはこの『道徳的』という概念を カントを用いて説明しました。 カントに関しては過去にいくつか動画を作りました。 専門的な用語などに関してはそちらで触れていますので 今回は専門的な用語をなるべく使わずに カントの道徳観を取り上げたいと思います。 功利主義の祖であるベンサムが【道徳と立法の諸原理序説】を出版した5年後 イマヌエル・カントは【道徳形而上学原論】を世に発表しました。 カントは本書において功利主義を明確に批判しています。 『道徳とは、幸福やその他の目的を最大化するためのものではなく 人格そのものを究極目的として尊重することだ』 平たくいえば、道徳をツールにしてはいけない。 カントのこの主張はその後の普遍的人権や道徳倫理に大きな影響を与えました。 ある時点での利害や必要性、欲望や選好といった経験的理由を道徳の規準にすべきではない。 それは変化しやすく、偶然に左右されるので普遍的な基準にはなり得ない。 同時に功利主義的思想は個人の自由を尊重していない。 カントはこのように考えました。 この点ではリバタリアニズムと同じ意見なのですが カントが規定する『自由』はリバタリアニズムにおけるそれと比べてかなり厳格なものです。 カントは前提として、人類には共通の理性の能力があるといいます。 これをアプリオリ(先験的)な理性と表現したりします。 その理性を『自律的に道徳を実践するため』に利用できると考えました。 カントにおける自由はこの【自律】に表現されています。 自律的とは『目的そのものを目的そのもののために選択すること』です。 一方で対義語である【他律】は『自分以外のものが下した決定に従って行動すること』 または『目的のための手段を選択すること』と表現されます。 カント哲学においては【義務】や【定言命法】などの言葉が現れますが 広義ではどちらも【自律的】と同じ意味を持っています。 関係性をまとめるとこのようになります。 「そうすることが正しいから」という信念以外の動機は 全て仮言命法であり、傾向性の動機であり、他律的です。 Aを行うとBが達成される、それがさらにCという結果を導く。 このプロセスにおいてBやCを期待して行う行為を カントは道徳的だと認めません。 Aをすることが正しいからAをした。 自律的な行為とはこれ以外にはあり得ないとします。 これについてよく『抜け目のない店主』が例として挙げられます。 ある小売店に不慣れな客、例えば子供が訪れたとします。 店主は子供に対して商品の値段をふっかけることも可能です。 このときに『値段をふっかけると店の評判が悪くなるかもしれないから適正な値段を提示する』のはカントでいう仮言命法です。 動機と目的が一致していないので、道徳的ではない。 一方で『適正な値段で商品を販売するのは正しいことだからそうする』のは定言命法です。 動機と目的が一致しているため、道徳的です。 このように、動機と目的が一致していること もっと言えば「そうすることが正しい」という動機にしか道徳は存在しないとカントは考えるのです。 この主張は、功利主義の帰結的考え。 行動の結果を材料に『正義』を判断する方針と真っ向から対立します。 カントは「自然の中に存在するものはみな法則に従っている」と述べました。 人間を含めた全存在は何かしらの法則(物理や因果)によって束縛されています。 だとすると、決まった法則に則って運動が繰り返されるだけの世界に 道徳的価値を見いだすことは難しくなります。 しかしカントは「人間には自由の能力がある」といいます。 それが『理性』です。 理性があるからこそ、自然の法則や傾向性にとらわれない 【自由な】行動を選択することが出来ます。 つまりカントにおける自由とは理性を前提にした意志であり、 その理性は自身の道徳法則(正しいこと)を下敷きに 自分自身を積極的に律します。 その結果生まれるのが【自律的な行為】なのです。 カント的な自由とは、束縛が一切ないことではなく、 理性によって自身を律することなのです。 それは自然界の法則からの自由であり、 道徳的な行為そのものでもあります。 功利主義的な結論も、リバタリアニズムにおける自由も カントにとっては人間が先験的に持っている道徳を無視したものに見えるのでしょう。 カントは理性的存在が従うべき道徳原理を 『道徳形而上学原論』にて追求しました。 そこで彼は 『汝の意志の格律が、常に同時に普遍的法則になるように行為せよ』と述べました。 これは万人にあてはめても矛盾が生じないような先験的な原則に従って行為せよ。 とも言い換えられます。 確かに直感的には正しいような気もしますが、 一方で、そのような先験的な原則を様々な理性的存在の間で 共有することは可能なのでしょうか? そしてそれを例えば法律などでテキストに起こすことはできるのでしょうか? カントの提言から200年後 政治哲学者のジョン・ロールズがこの問いに答えようと試みます。 次回はロールズの正義論について触れたいと思います。 以上です。