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「板垣死すとも自由は死なず」は誰の言葉?

2012-08-01 06:33:27 | 社会科こぼれ話
この「社会科こぼれ話」が、過去に史実とされていたものを否定する方向へ傾いていますが、それならもう一つ。

 「板垣死すとも自由は死なず」といったのは誰でしょう?

 もちろん板垣退助?

 板垣退助は自由民権運動の主導者として知られ、私が小さい頃には100円札の肖像でした。



 自由党を設立した翌年(明治15年)、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷しました。
 その際、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと言われています。

 しかし、実際には説が分かれています。

 似ているのは次の説。

1 自由党の「臨時報」では、「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」と叫んだとされています。
2 政府の密偵の上申書には、「吾死スルトモ自由ハ死セン」と叫んだと書かれていたらしい。
3 岐阜警察署警部長の上申書では、「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキトゾ」と叫んだというのですが・・・・。

 否定的なのは次の説

1 事件の直後、小室信介というジャーナリストが岐阜で行った演説の題名「板垣死ストモ自由ハ死セズ」が、板垣自身の発言として世間に広まったものといわれています。

2 事件の5日後、4月11日の大阪朝日新聞の記事「板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と叫んだというのですが、報知新聞はそのあとで関係者に取材したところ、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉だそうです。

 どうやら、この2の説が信憑性が高そうです。 

 実際に負傷直後に板垣が言った言葉は、「痛い。医者を呼んでくれ」だったとも言われていますし、これが普通でしょう。

 なお、このとき板垣を診察した医師は、のちの政治家後藤新平でした。
 はじめは、板垣退助は後藤を政府からの刺客と勘違いして拒絶したらしいようです。周囲に説得されてようやく診察を受けたようです。

 板垣は後藤を「彼を政治家にできないのが残念だ」と、語ったといいますが、その後、後藤新平は、内務大臣、外務大臣、東京市長などを歴任しています。

 運命の出会いだったのでしょう。

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