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復刻 関ヶ原の戦い-なぜ徳川の時代に?-17-

2014-12-07 05:12:56 | 社会科こぼれ話
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に合わせて、関ヶ原シリーズを復刻・改訂しています。

それも、終盤。今回は、戦法です。

(4)戦 法

家康は、兵法、武芸に生涯打ち込んでいました。

 そのきっかけは、何と言っても、人質時代に出会った太原雪斎でしょう。

 これについては、徳川家康の学問の師とする説から後世の創作とする説まで様々ですが、私は、何らかの接点はあり、大きな影響を与えたと考えています。

 「今川氏の衰退は雪斎の死によって始まった」と言われるほどの人物で、桶狭間の戦いまで存命していたならば、義元が織田信長に討たれるようなことは決してなかったと表されます。

 そうなると、歴史は変わったかも??


 そして、もう一人、家康に大きな影響を与えたのが武田信玄です。 

 「風林火山」は『孫子』・軍争篇の有名な言葉ですが、信玄は、孫子の兵法を具現化しながら勢力を拡大させてきました。

その信玄に、家康は三方原で生涯唯一の大敗を喫しています。家康はこの悔しさを忘れまいと、絵師に命じ 顰像(しかみ像)を描かせました。

 俗説では、この戦いにおける武田軍の戦略をそのまま後の関ヶ原の戦いで用いて、大阪城に篭城する西軍を野戦に誘き出したというものがある(Wikipediaより)ほどです。

 もともと、家康は若い頃から武田信玄の兵法を範としており、自分を負かした信玄に対する敬意は高まり、武田家の遺臣を数多く召し抱えました。

 犬山藩初代藩主・成瀬正成の父、正一も、かつて武田軍に仕えていました。その経験を生かして、長篠の戦いでは、武田方の旗差物の識別をし、一つも間違うことがなかったとされています。(Wikipediaより)
 
 話がそれましたが、家康は、武芸にも生涯打ち込んでいました。

 これも、スタートは人質時代からのことです。家康は、今川義元には感謝しているようです。

 後年は、奥山流や小野一刀流の剣術に大坪流馬術、稲富流鉄砲、水練などを極め、レベルもかなり高かったようです。

 後年、吉宗が家康を理想として、享保の改革で武芸を奨励したのもうなずけます。

 家康は、戦法でも、自分の経験を生かしているのです。

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