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復刻 関ヶ原の戦い-なぜ徳川の時代に?-16-

2014-12-06 05:39:37 | 社会科こぼれ話
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に合わせて、関ヶ原シリーズを復刻・改訂しています。
まとめシリーズ第3弾。

(3)人 格

 家康の面倒見のよさは特筆ものです。

 東軍についた武将、つきたかった武将の多くが、どこかで家康の世話になっているかもしれません。

 たとえば、秀次事件で連座を免れたのは家康の力が大きかったと思われます。
 三成暗殺事件でも家康が仲裁に入っています。
 宇喜多秀家のお家騒動も、家康が仲裁に入り、家康に多くの武将が流れました。小早川秀秋の降格を救ったのも家康でした。


 まだまだ事例はあります。
 

 では、このような人格はいつ形成されたのでしょうか?

 私は、これも人質時代だと考えています。

 定説では、人質時代は人質の悲哀を味わったとか、陰湿ないじめに遭ったとも言われていますが、それだけではなかったと思います。

駿府での人質時代には、臨済寺には祖母(母・於大の母)である源応尼(華陽院)が、竹千代が元服するまでの8年間、その育成にあたりました。
 そこでは、人のとるべき道について教えられました。

 家康は、人質の子をとても大事にしたという記録も残っています。

 これも、自らの人生を映しての事でしょう。

 もちろん、戦国の世ですから、「狸おやじ」と言われたほどの策略もあったことでしょうが、勝ち残るためにはある程度仕方がありません。
 
 戦国武将の記録は、敵には悪く書かれ、味方にはよく書かれます。
 これは当然の事です。
 後世の小説は全く信じてはいけません。あくまでもフィクションです。

 家康についての歴史家の諸説にも両論あるのは承知の上で、私は、やはり人格者説寄りの立場です。

 その行動から客観的に見ても、信長や秀吉とは性格もずいぶん異なるようです。

「人の世にあるは重き荷を負って遠き道を行くが如し。急ぐべからず。」


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