孫子と生物学に学ぶ「戦わずして勝つ」
孫子の有名な言葉に、「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」(諜功編〈第3〉)というものがある。これが世に有名な「戦わずして勝つ」の原文である。
秀吉は、まさにこの言葉を実行した。
「戦わずして勝つ」徳川家康を軍事力を使わずに従わせた豊臣秀吉の革新的アイデア
https://president.jp/articles/-/49416?page=1
“豊臣秀吉が、織田信長より優れていた点とは?” 歴史に学ぶ「戦わずして勝つ」法【書籍オンライン編集部セレクション】
https://diamond.jp/articles/-/313071
黒田官兵衛に学ぶ経営戦略の奥義“戦わずして勝つ!”
信長家臣時代から、一貫した秀吉の戦い方
秀吉は、初期の斉藤氏との戦いで「敵を寝返らせることで」武勲を挙げましたが、信長が苦戦をした浅井・朝倉の連合軍との戦いでも、敵である堀・樋口らの武将に内通を約束させています。このとき、秀吉の寝返り工作で活躍したのが軍師の竹中重治です。
のちに中国地方の毛利軍対策をする方面軍を秀吉が率いたときは、播磨の大勢力だった小寺氏の家臣、黒田官兵衛にも声をかけ、官兵衛を通じて小寺氏を信長の味方に付けることに成功しています。
秀吉の強さは、戦う前の寝返り工作にあるのですが、同様に「戦わずに勝つ」ために兵糧攻めや水攻めも積極的に行っています。三木の干し殺し、鳥取の渇殺し、備中高松城(岡山県)の水攻めなどが有名です。
信長死後、後継者争いで激突した柴田勝家(信長軍で北陸方面を担当)との戦いでは、秀吉は勝家と対峙していた上杉景勝と同盟を結ぶことに成功し、運命を決めた賤ヶ岳の戦いでは、柴田軍の主力の1つだった前田利家の部隊を戦線離脱させています。
前田利家は秀吉とも通じていたとされ、利家が戦線離脱したことで、柴田側の金森隊、不破隊も戦線離脱をおこない、勝家軍の敗北を決定づけることになりました。
秀吉は、敵の内部分裂を誘う調略の力を信長から高く評価されていました。得意の戦い方で若い頃から成功を収めた秀吉は、以降も自らの武器を最大限活かしたのです。