週刊日本の100人 菅原道真
シリーズ第72号は菅原道真です。
菅原道真といえば、やはり天神さまです。
「とおりゃんせ」にも唄われるように、最も身近な寺社の一つ、天神さまの祭神です。
菅原道真は、歌人であり学者であり政治家として活躍した平安前期の実在人物です。
幼少時から学問詩歌の才に優れ、国家試験に合格し博士号を取ります。宇多天皇に重用されました。
894年には遣唐大使に任命されましたが、日本独自の文化を育てると共に、唐が衰退してきたことを理由に遣唐使の廃止を訴え、採用されました。
事故率が高く、行きたくなかったのかもしれませんが・・・。
右大臣(当時の№2)にまでなりましたが、左大臣・藤原時平の「道真が謀反を企てている」という讒言により大宰権帥に左遷されます。
これには、醍醐天皇が宇多上皇の影響力の排除を考えていたことも一因です。
北九州に左遷された二年後の延喜三年(903年)、不遇のうちに病死します。
その後、京で異変が相次いで起こるのです。
「しばやんの日々」から引用します。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-64.html
まず、延喜9年(909)に道真の政敵であった藤原時平が39歳の若さで病死し、延喜13年(1573)には道真の後任の右大臣源光が死去。
延喜23年(923)には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)が、次いで延長3年(925)その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が相次いで病死。
極めつけは延長8年(930)朝議中の清涼殿が落雷を受け、道真の左遷に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出た清涼殿落雷事件が起こっている。この落雷がショックで醍醐天皇は病に倒れ、皇太子寛明親王(ゆたあきらしんのう:後の朱雀天皇)に譲位されて1週間後に崩御されてしまう。
道真の左遷に関係のある人々が死んだだけではなく、「扶桑略記」という書物には自然災害も京都で頻繁に起こっていることが書かれているそうだ。
延喜10年(910)洪水、延喜11年(911)洪水で多くの町屋が破損、延喜12年(912)洛中で大火、延喜13年(913)は大風で多くの町屋が倒壊、延喜14年(914)洛中で大火、延喜15年(915)水疱瘡が大流行、延喜17年(917)渇水になる、延喜18年(918)洪水が起こる、延喜22年(922)咳病が大流行、と次から次にいやなことが起こる。
これらにより、雷神・祟り神として恐れられ、天神として祀られ、今では学問の神様として親しまれています。
菅公として、百人一首にも取りあげられています。
「このたびは ぬさもとりあえず 手向山
もみじのにしき 神のまにまに」
宇多上皇にお供をして吉野に出向いた時の歌です。
■特集
菅原道真
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
■ライフ&タイム
神として祀られた文人政治家の58年
神童の誕生/文学を極めた青年官吏
出世街道を猛進/栄華の絶頂から転落
失意の死が招く怨霊伝説
■ヒューマンエピソード
理想に向かって邁進する勤勉実直なエリート詩人
■クローズアップ
京の都、震撼す!「天神」誕生の背景とは
■人物スクランブル
菅原道真 人物相関図
藤原時平/三善清行/紀 長谷雄/大隈重信
■後世への遺産
天満宮、日本文学……左遷劇の副産物たち
■評伝アラカルト
菅原道真考
宇多天皇/所?功/喜田貞吉
三善清行/醍醐天皇/藤原時平
■ビジュアル人物事典
名和長年/南部信直/新島?襄/西 周
西田幾多郎/日蓮/新田義貞/新渡戸稲造
■日本の100人ミュージアム
シリーズ第72号は菅原道真です。
菅原道真といえば、やはり天神さまです。
「とおりゃんせ」にも唄われるように、最も身近な寺社の一つ、天神さまの祭神です。
菅原道真は、歌人であり学者であり政治家として活躍した平安前期の実在人物です。
幼少時から学問詩歌の才に優れ、国家試験に合格し博士号を取ります。宇多天皇に重用されました。
894年には遣唐大使に任命されましたが、日本独自の文化を育てると共に、唐が衰退してきたことを理由に遣唐使の廃止を訴え、採用されました。
事故率が高く、行きたくなかったのかもしれませんが・・・。
右大臣(当時の№2)にまでなりましたが、左大臣・藤原時平の「道真が謀反を企てている」という讒言により大宰権帥に左遷されます。
これには、醍醐天皇が宇多上皇の影響力の排除を考えていたことも一因です。
北九州に左遷された二年後の延喜三年(903年)、不遇のうちに病死します。
その後、京で異変が相次いで起こるのです。
「しばやんの日々」から引用します。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-64.html
まず、延喜9年(909)に道真の政敵であった藤原時平が39歳の若さで病死し、延喜13年(1573)には道真の後任の右大臣源光が死去。
延喜23年(923)には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)が、次いで延長3年(925)その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が相次いで病死。
極めつけは延長8年(930)朝議中の清涼殿が落雷を受け、道真の左遷に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出た清涼殿落雷事件が起こっている。この落雷がショックで醍醐天皇は病に倒れ、皇太子寛明親王(ゆたあきらしんのう:後の朱雀天皇)に譲位されて1週間後に崩御されてしまう。
道真の左遷に関係のある人々が死んだだけではなく、「扶桑略記」という書物には自然災害も京都で頻繁に起こっていることが書かれているそうだ。
延喜10年(910)洪水、延喜11年(911)洪水で多くの町屋が破損、延喜12年(912)洛中で大火、延喜13年(913)は大風で多くの町屋が倒壊、延喜14年(914)洛中で大火、延喜15年(915)水疱瘡が大流行、延喜17年(917)渇水になる、延喜18年(918)洪水が起こる、延喜22年(922)咳病が大流行、と次から次にいやなことが起こる。
これらにより、雷神・祟り神として恐れられ、天神として祀られ、今では学問の神様として親しまれています。
菅公として、百人一首にも取りあげられています。
「このたびは ぬさもとりあえず 手向山
もみじのにしき 神のまにまに」
宇多上皇にお供をして吉野に出向いた時の歌です。
■特集
菅原道真
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
■ライフ&タイム
神として祀られた文人政治家の58年
神童の誕生/文学を極めた青年官吏
出世街道を猛進/栄華の絶頂から転落
失意の死が招く怨霊伝説
■ヒューマンエピソード
理想に向かって邁進する勤勉実直なエリート詩人
■クローズアップ
京の都、震撼す!「天神」誕生の背景とは
■人物スクランブル
菅原道真 人物相関図
藤原時平/三善清行/紀 長谷雄/大隈重信
■後世への遺産
天満宮、日本文学……左遷劇の副産物たち
■評伝アラカルト
菅原道真考
宇多天皇/所?功/喜田貞吉
三善清行/醍醐天皇/藤原時平
■ビジュアル人物事典
名和長年/南部信直/新島?襄/西 周
西田幾多郎/日蓮/新田義貞/新渡戸稲造
■日本の100人ミュージアム