【えっ! これが京都? 織田信長も見た戦国時代の京都の町をCGで再現】前編 上京編 1570年頃の京都は想像と全く違う、意外な姿だった!
この動画は戦国時代、1570年頃のの京都の街並みを3DCGで紹介した動画です。皆さんは戦国時代の京都の町は、どのような姿を想像しますか? 前回の予告編でもお伝えしましたが、戦国時代の京都の町は、上京と下京の2つの町に分かれており、それぞれが堀を巡らせ、防御を固めていました。今回から数回に分けて戦国時代、1570年頃の京都の町を紹介しようと思います。今回は、上京を中心に紹介します。京都の町が上京・下京に2分されるようになるのは、応仁の乱以降の事で、それまでは上京と下京がここまで明確に分かれるようなことはなく、一帯の町を形成していました。応仁の乱後、周囲を堀で囲み、門や櫓を設けて自衛するようになったのも、乱後の治安維持・自衛のためでした。発掘調査によると、堀の規模は幅6.5メートル、深さ2m前後だったようです。こうした防御施設は、当時「惣構」と呼ばれていました。これら上京と下京の2つの町を結ぶ道は室町通のみで繋がっていました。 これら上京・下京の町の防衛や町政の運営のために、町組という自治組織が作られていました。町組を運営していたのは、富裕層の町民で、時の権力者から諸役免除・兵士の宿泊免除・臨時の課税免除等の補償をしてもらうため、また、そうした諸役免除等には信長など、権力者に献金をして権利を獲得していましたが、その源泉の1つは法華宗門徒の商工業者達の財力でした。上京には内裏や公家・武士の邸宅およびそれに関連する商人を中心に、下京には商人達が中心に町が形成されていました。 【関連サイト】 ものすごい図鑑 洛中洛外図 上杉本 https://www.nhk.or.jp/school/bunkazai...