★たとえ安保法案が通されても、不適切な自衛隊海外派遣は許さない戦いが必要
<以下は参考情報>
安保法案:「本当にやばい状況だった」イラク経験者の憂い
毎日新聞 2015年09月18日
安全保障関連法案に対し、小泉政権時代の自衛隊イラク派遣にかかわった関係者から懸念の声が上がっている。
イラク派遣は「非戦闘地域」で「人道復興支援」に当たるとされたが、自衛隊員は戦闘地域と変わらないリスクを負わされた。
政府がその実態を国民に説明しないまま、海外派遣のリスクをさらに高める安保法制が始まろうとしている。
サマワに近いルメイサでは05年12月4日、陸自部隊がイスラム教シーア派のデモ隊に囲まれ、銃撃戦となりかねない事件が起きていた。
デモ隊は「ノージャパン」と叫んで投石し、軽装甲機動車のサイドミラー1個が割られた。
「イラク行動史」によると、居合わせた警備小隊は、投石する群衆の中に銃の所持者を発見した。
当時、内閣官房副長官補としてイラク情勢の分析に当たり、事件の報告を受けた柳沢協二さんは「あれは本当にやばい状況だった」と振り返る。
隊員たちは群衆の様子を注視。 銃を抜く場面はなく隊員は無事だった。
「本当に冷静に対処したと思う。 銃撃戦になっていたら無事ではすまなかったでしょう」
自衛隊は実はこうした状況を想定し、派遣する自衛官に至近距離射撃訓練を徹底的に積ませていた。
それまでは日本に侵入した敵を想定した遠距離射撃の訓練が中心だった。
04年5月からの第2次イラク復興支援群で副群長を務めた村中清二さん(65)は「至近距離での訓練を私も含め全員がやった。
今までにない10メートルを切るような距離で、通常の射撃訓練で割り当てられる1年分以上の実弾を短期間で撃った」と証言する。
自衛隊は戦後、実際の現場で1発の銃弾も撃っていない。
「イラク行動史」は、武器使用に関する意識について「多くの指揮官に共通して、最初の武器使用が精神的にハードルが高いのではないかとの危惧があった。
最終的には『危ないと思ったら撃て』との指導をした指揮官が多かった」と記述している。
村中さんは副群長で宿営地をほとんど出なかったというが、「もし武器使用が必要な局面に遭遇したら、指揮官としてまず自分が撃ち、部下の代わりに責任を取るつもりでした」と回想する。
「最初の一発を誰が撃つか。 最初の犠牲者に誰がなるか。
それで日本の歴史が変わることになると意識していた。
部下が撃って民間人を殺したとなれば(部下は)精神的にも耐えられないと考えていました」
イラク派遣前、国会で自衛隊員のリスクを巡り激しい議論があったが、内部資料や証言から、現地は「非戦闘地域」という言葉とはほど遠い状況だったことが浮かぶ。
第1次復興支援群長だった番匠幸一郎氏は、イラク派遣を「純然たる軍事作戦であった」と記す(「イラク行動史」)。
だが、その実態は国民に伝えられていない。
安保関連法案が成立すれば、自衛隊は海外で、より危険な治安維持活動や他国軍の後方支援を担う。
柳沢さんは「政府は安保法制でリスクは高まらないような言い方をするが、イラク派遣ですら、これほどのリスクを伴う。国民に説明する責任を回避している」と話す。
村中さんは「法案に賛成とも反対ともいえない」とした上で「イラク派遣でも国論は二分されていたが、今回は世論調査でも国民の多くが今国会での成立に反対する。
そんな状態でできた法律に基づいて自衛官が活動できるのか」と懸念を口にする。【三股智子、井上英介】