す日本で一番有名な北朝鮮工作員辛光洙の話(R5.10.6)
令和5年10月6日金曜日「荒木和博のショートメッセージ」第1270号。
原敕晁さんに成り代わった(いわゆる「背乗り」)北朝鮮工作員辛光洙のお話です。
チューリップテレビ『暗潮 ~北の工作と失踪~』は「放送ライブラリー」(横浜市中区)で視聴できる様です。
検索結果 暗潮 ~北の工作と失踪~ - 放送ライブラリ公式ページ (bpcj.or.jp)
拉致被害者をはじめ、全ての日本人を対象にした調査を行うことを約束した日朝合意から1年9か月あまり。2016年2月、北朝鮮は日本人に関する調査を全面的に中止し、特別委員会を解体すると発表した。最愛の人の帰りを待つ家族にとっては、またしても奈落の底に突き落とされる結果となってしまった。多くの日本人が拉致されたとみられる1960年代から80年代にかけて、富山でも多くの人が不可解な失踪をしている。拉致の可能性が排除できない特定失踪者は富山県内に8人。失踪者のいた場所の近くでは、アベック拉致未遂事件や北朝鮮工作員が飛び降り自殺した事件が発生していた。そのほか、日本人を拉致した実行犯が、高岡市で少年時代を過ごし、富山でも工作活動していたことが判明した。番組では、北朝鮮工作員の富山県の上陸ポイント周辺で、聞き込み取材を徹底的に進めたほか、元工作員や当時の捜査官から貴重な証言を得て、富山で暗躍を続けた工作員の姿を洗い出した。暗くて深い北の闇。特定失踪者家族は高齢化し、残された時間は決して多くない。
説明文の日本人を拉致した実行犯が辛光洙ですね。
※辛光洙が関わった拉致事件⇩
横田めぐみさん:1977年(昭和52年)11月15日
地村保志さん、濱本富貴恵さん:1978年(昭和53年)7月7 - 8日
原敕晁さん:1980年(昭和55年)6月
※辛のその後
1985年2月、ソウルで韓国当局に逮捕され12月に死刑判決。
1988年12月20日、無期懲役に減刑。
1999年12月31日に恩赦で釈放。(死刑から無期に減刑は分かりますが、それが釈放になるとは驚きです。)
※1988年の無期懲役に減刑された翌年に日本の国会議員による嘆願書が提出されています。
1980年1月にはサンケイ新聞の阿部雅美記者が拉致についてスクープしていますし、
1988年3月には国会で辛光洙事件について質問しています。
それを知っているのに嘆願書に署名した国会議員、133人。
その中には土井たか子、村山富市、千葉景子、江田五月、菅直人、田英夫、青島幸男らの名前が。
特に社会党は119人も。元々の議員数も多かったのでしょうがそれでもダントツです。
今は昔です。
但し社会党は大雑把に言うと、社民党と民主党に分かれ立憲民主党として生き残っています。
荒木和博さんの昨日のショートメッセージを聞き、辛光洙の事を調べてみました。
芋づる式に色々繋がってきました。
今まで辛光洙は朝鮮生まれで大人になってから日本に来たと思っていましたが、
静岡生まれ、尼崎⇒富山県高岡市に移住し、戦後韓国に渡り、
朝鮮戦争時に北朝鮮義勇軍に志願し、その後朝鮮労働党に入党し工作員に。
一時同居していた在日朝鮮人女性朴春仙さんは利用されるだけ利用された感じがします。
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原敕晁さん拉致は辛光洙が首謀、共謀が元朝鮮学校校長の金吉旭。
元とはいえ朝鮮学校校長だったとは驚きです。
因みに広島朝鮮初中高級学校の金徳元は教え子を使ってヘロイン密輸を計画。
また下関朝鮮初中級学校元校長曹奎聖は覚醒剤密輸入で国際手配されています。
この様に朝鮮学校関係者が拉致に関係していたのに、
朝鮮学校への補助が全国一の兵庫県。
この事を質問され「子供には罪がない」と言った斉藤兵庫県知事。
拉致問題についてどう考えてるのか聞きたいものです。