吉川弘文館に『中世の日中交流と禅宗(西尾賢隆著)』という書籍があり、鎌倉時代及び室町時代の中国からの渡来僧がその時代の政治・文化に与えた事について書かれています。私自身も中国に留学した栄西と北条政子、渡来僧である蘭渓道隆と北条時頼、無学祖元と北条時宗、それ以外にも多くの禅宗の僧侶と北条執権体制の関係がその時代を大き動かしたのでないかと考えています。鎌倉時代の最大の出来事は二度に亘る蒙古襲来(文永・弘安の役)ですが、この中世日本にとって最大の危機に時の指導者、歴代の北条執権がどう対処したのか。もっと研究が進んでいても良いのではないかと思います。
さて中国から帰国した栄西は『興禅護国論』を書きました。1200年頃ですが、このとき栄西は蒙古が将来の脅威となることを感じていて、源実朝や北条政子に話していたか?寿福寺や建仁寺の開山を任せるほど重用したということは、私は栄西のインテリジェンスにも期待したと考えています。次に北条泰時の時代です。栄西は1215年に亡くなっていますので、弟子である退行行勇らが活躍します。泰時も中国との交流に関心があり、和賀江嶋や朝夷奈切通の整備に力を注ぎます。朝夷奈切通の整備を急いだのは六浦津に荷揚げされた物資を鎌倉に運ぶために必要だったのでしょう。北条時頼の時代になると、日宋貿易による富の蓄積も大きくなり、建長寺創建や鎌倉大仏の鋳造などの事業が北条氏の手によって進められます。この北条時頼のことを徒然草の吉田兼好は「国を保つほどの人」と言っていますが、鎌倉仏教もこれまでの加持祈祷による国家安泰祈願の密教に加え、絶えず決断を求められる指導者の心の支えとなる自力の仏教、禅宗が盛んになりました。
北条時宗のときに文永の役が起こりますが、このときは戦の準備が不十分なまま戦うことになりましたが、幸い元軍は様子見だけで引き揚げました。そして弘安の役です。このとき北条時宗の不退転の決断の心の支えとなったのは渡来僧である無学祖元であり、元軍との戦いに必要な情報をもたらしたのもこれら渡来僧だったと思われます。結果的に暴風雨により元軍はほぼ全滅しますが、これは神風による勝利でなく、周到な準備のお蔭と考えた方がよさそうです。遡り、私は日本の臨済禅の租 栄西の存在は大きかったと考えています。