後深草院二条の自伝『とはずがたり』に作者が正応二年(1289)二月に鎌倉に下向したときの様子が語られています。将軍は惟康親王、執権は北条貞時の時代です。弘安の役のあと、霜月騒動で安達泰盛一族が滅び、北条一族の支配にも陰りが見えてくる頃です。
作者は江ノ島に泊まり、翌日の鎌倉入りの前に極楽寺に参拝しています。その時の様子は、「あくれば鎌倉へいるに、極楽寺といふ寺にまいりてみれば、僧のふるまひ都にたがはず、なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂といふ山をこえて鎌倉のかたをみれば、東山にて京を見るにはひきたがへて、きざはし(階段)などのように、重々に、ふくろの中に物をいれたるようにすまひたる。あな物わびしと、やうやうにみへて、心とどまりぬべき心ちもせず。」と書かれています。当時の鎌倉の家々は海に向かって階段状になった平地にぎゅっと詰めたように建てられていたのでしょう。京都の東山から遠く巨椋池をみた景色とは比べようもなく、ガッカリした作者の気持ちがよく表現されています。
ところで先の文章をみてちょっと引っかかる個所がありました。極楽寺を参拝したあと、いきなり化粧坂からみた鎌倉の街並みの様子が描かれています。現在であれば極楽寺からは極楽寺切通しを通り坂の下を経て長谷に抜けますので、化粧坂を下ることはありません。ということは、作者は別の道を通って鎌倉入りをした可能性があります。ではどこか?前にも紹介した極楽寺絵図をみますと、今の稲村ケ崎小学校のあたりから右に折れ、山伝いに行く道が描かれています。今もその道はあり、長谷配水池を抜け、大仏トンネル手前から葛原ケ岡・大仏ハイキングコースを通って源氏山公園に尾根伝いに行けます。今でこそハイキング道ですが、鎌倉時代は生活路として使われていたと推測しました。どうでしょうか?