人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 稲村ケ崎 ーー

2016-09-04 15:53:21 | 日記

かながわの景勝50選にも選ばれている「稲村ケ崎」。西の方角をみれば、七里ヶ浜から江ノ島、天気に恵まれれば遠くに富士山が望める私自慢の景勝地。本日紹介する写真は東側、断崖絶壁の稲村ケ崎の厳しい姿を写した1枚です。極楽寺切通しが開かれる以前、鎌倉時代のはじめのころまでの旧東海道はこの磯根に沿った海岸沿いの道だったようです。 『海道記』には、「稲村といふ所あり。険しき岩の重りふせるはざまをつたひ行けば、岩にあたりてさきあかる浪、花の如く散りかかる  -憂き身をは恨みて袖をぬらすともさしてや波に心くたかんー」の記述がありますが、描写が具体的であり、ここを通った作者の実体験と思われます。

さてこの稲村ケ崎は、新田義貞の「稲村ケ崎駆け渡り」の事で有名な地でもあります。『太平記』の新田義貞が佩いていた黄金づくりの太刀を海中に投じて、龍神に祈念をこめたところ、彼の忠烈を龍神も納受ましまし、という奇跡話。吉川英治は『私本太平記』のなかで、稲村ケ崎の龍神の祈りが、かつての童幼がいだく唯一の影像にもなっていたものだったと、若干批判めいて書いています。ただ実際のところ、この日、1333年の陰暦5月22日の未明は大潮の干潮時であり、潮が大きく引いたのは事実だったようで、新田義貞が渡る3日前には大館宗氏が先駆けして稲瀬川あたりで討ち死にしています。この鎌倉侵攻がうまくいった要因について吉川英治は、海上にいた北条側の兵船が沖に戻され十分な攻撃が出来なかったこと、行合川にそって田鍋谷(七里ガ浜の住宅地内田辺という地名がある)から長谷山を通り山伝いに背後から極楽寺にいる敵に攻めこんだ三木俊連の手柄もあったとしています。いずれにしてもこの日を境に鎌倉勢は総崩れとなり、北条一族は東勝寺で自決し、140年以上続いた鎌倉幕府は滅ぶことになります。

とはいっても、新田も足利も、もとはといえば源氏の一族。この戦いは後醍醐天皇の討幕軍となっていますが、結局は平氏の血筋である北条氏と源氏の戦いであり、新田氏の血筋をひく徳川家康が徳川幕府を開き、1868年に大政奉還するまでの700年近く武家社会が続いたことになります。明治となって第二次世界大戦で日本が敗戦するまでは僅か77年間。その77年の間に外国と4回も戦争した日本の姿をみると、明治という時代はなんだったのか、司馬遼太郎の書いた「この国のかたち」を読み直してみたくなりました。

 

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