大町四ツ角から名越に向った先に安養院があります。このお寺、何度か火災にあってもその都度再興され、開山・開基は誰かといわれても直ぐには答えられません。三つのお寺が関係しているとご理解ください。まずは、もともとこの地にあったお寺は尊観が開いた浄土宗の善導寺。開山尊観の墓と伝わる徳治三(1308)年の年号がある宝篋印塔(国重文)が本堂の裏にあります。この善導寺のあとに北条政子が源頼朝の冥福を祈って笹目に建てた長楽寺が移され、北条政子の法名をとって安養院として再興されました。安養院の山号・院号は祇園山安養院田代寺。さらに安養院は延宝八(1680)年に焼失。その後に源頼朝の家臣田代信綱が建てた比企ケ谷の田代寺の田代観音堂を移して再興され、今の安養院があるわけです。また尊観の宝篋印塔のとなりに北条政子の供養塔といわれる宝篋印塔がのこされています。仏様は善導寺の阿弥陀如来坐像、田代寺の千手観音菩薩と北条政子像などが安置されています。ちなみにこのお寺は坂東三十三観音の第三番札所。この観音様は北条政子の信仰が篤く、良縁観音、昇竜観音と呼ばれているようです。
さてこの安養院は北条政子ゆかりの寺であることは間違いなさそうです。このブログでも北条政子はたびたび登場しますが、頼朝の妻としての顔、大姫・頼家・実朝の母としての顔、北条一族や御家人の結束を促した尼将軍としての顔など多彩であり、興味はつきません。日本史のなかには卑弥呼、斉明天皇、持統天皇、光明子(聖武皇后)など、後世に名を残す女性がいますが、北条政子も間違いなくその一人。そして『吾妻鏡』は頼朝が亡くなる前、数年間の欠落部分があります。何故欠落しているか不明とされていますが、私はそこに北条政子が深くかかわっていた可能性があると考えています。どうでしょうか?