宝戒寺は別名「萩の寺」とも呼ばれ、季節になれば境内いっぱいのハギの花が見られます。9月4日(日)に訪ねたときはまだ咲いていませんでしたが、お寺の方に伺うと見頃はお彼岸前後とのこと。そのころまた訪ねてみたいと思います。
この宝戒寺は北条得宗家ゆかりの寺で、1333年に北条高時ら北条一族が近くの東勝寺で自決し、その菩提を弔うために後醍醐天皇が足利尊氏に造らせたといわれています。お彼岸に咲くハギの花は美しいのですが、滅亡した北条一族の事を思うとちょっと感傷的な気持ちになります。本尊は地蔵菩薩坐像で「子育経読地蔵大菩薩」と呼ばれています。梵天と帝釈天を脇侍として従え、迦陵頻伽や飛天をあしらった金色の光背を背負った姿には近寄りがたいものがあります。
さて鎌倉時代を振り返りますと、やはり源頼朝、頼家、実朝の源氏三代がクローズアップされがちで、将軍家を支えた北条執権十六代の功績はついつい後回しになります。わたし個人的には、鎌倉幕府成立後、それから700年続く武家社会の基礎を作ったのは、北条一族の力だと思います。その歴史的ターニングポイントは1221年の「承久の乱」。尼将軍といわれた北条政子が御家人の結束を促した訓示。後鳥羽上皇との戦いを決した覚悟でしょう。極端な話、頼朝が死んでから北条政子が25年も長生きしなければ、そのあと100年以上も北条執権政治は続かなかったと考えています。
では何が頼朝と違うのか?一つは、一族の結束を大切にしたこと。これは北条氏の系図をみれば分かります。自分の弟には義時(2代執権)、時房(連署)がいますし、義時の子には、泰時(3代執権)、朝時(名越)、重時(極楽寺)、政村(7代執権、歴代連署)。時房の子には、時盛(佐介)、時村、資時、朝直(大仏)、時直らがいます。この北条泰時ら義時、時房の子供連中は叔母政子の薫陶を受けていたはずです。もう一つは、長子相続を決めたこと。北条時政からの長子の系列は「得宗」として執権のなかでも別格の扱いになっています。また得宗がまだ若いときは、一族の有力者が連署として支える体制もありました。この信頼できる一族が鎌倉の四境や六波羅探題・鎮西探題として配され、執権による支配を支えていたわけです。