人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --極楽寺坂の攻防 田鍋谷ーー

2020-12-12 16:27:37 | 日記

『太平記』には出てきませんが、『私本太平記(五)』(吉川英治歴史時代文庫67)の「稲村ケ崎」のところに七里ヶ浜の田鍋谷の地名が出てきます。極楽寺坂の敵を攻めあぐね、行合川の本陣にいる新田義貞に家来の三木俊連の案が献策されます。

「この附近の田鍋谷から北に入って、長谷山に出て、極楽寺の敵の背後へ突き出でまする」「いい考えだ。が、義貞もこの辺の姥ケ谷、田鍋谷などの八方に兵を入れて間道をさぐらせてみた。しかしいずれも兵馬の通れるような所ではないという」「いや田鍋谷なら越えて行けぬことはないと、三木俊連が申しおります。おゆるしとあれば、三木の一勢が」

行合川は江ノ電七里ガ浜駅の横を流れている川。田鍋谷という地名は七里ガ浜東の住宅のなか、七里ガ浜小学校の近くに「田鍋」という地名がみられますので、三木の一勢は、行合川沿いに北方にある尾根を目指し、現在の鎌倉山神社のあるところから尾根伝いに極楽寺を目指したものと思われます。今でも山道があり、住民にとっては極楽寺に抜けるいい散歩コースになっています。

さて写真は鎌倉山から七里ガ浜東の住宅地に抜ける一方通行路で写したものです。ススキと夕焼けの寒々しい景色が気に入り写しました。この写真の右の尾根筋と住宅地がぶつかるあたりに行合川が流れ、川の上流に田鍋谷があります。洲崎の戦いで赤橋守時を破った新田軍は、右の腰越方面から海岸伝いに七里ヶ浜に入り、行合川に陣をはったと思われます。

 

 

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鎌倉を知る --稲村ケ崎 陣鐘山の紅葉ーー

2020-12-12 15:07:25 | 日記

新田義貞の鎌倉攻めのとき、極楽寺坂の攻防で新田義貞軍は陣鐘を鳴らしたと言われる陣鐘山が稲村ケ崎にあります。諸説ありますが、その陣鐘山の石碑があるのが江ノ電極楽寺駅の前にある住宅地の中。もう一つが今回紹介する江ノ電稲村ケ崎駅の前、北東の方向にあるこんもりした山です。個人的にはこの稲村ケ崎駅前の山が陣鐘山かと思っています。『太平記』では、極楽寺坂手前の様子を次のように書いています。

極楽寺へ向かはれつる大館次郎宗氏討たれ、兵、片瀬、腰越まで引き退くと聞えければ、新田義貞、二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかり、片瀬、腰越を打ち廻って、極楽寺坂へ打ちのぞみ給ふ。明け行く月に、平家の陣を見給へば、北は切通しにて、山高く路険しきに、城戸を結び、垣楯を掻き、数万騎の兵、陣を並べて並み居たり。

たぶん鎌倉幕府軍の陣は極楽寺川の対岸極楽寺側にあり、堅固な守りで固められていたと思います。そうすると石碑のある場所は敵陣の真っただ中となります。やはり実際の陣鐘山は、江ノ電稲村ケ崎駅の前の山が正しいのでしょう。今でもこの山は鎌倉山からは尾根続きで山道を歩いてこれますし、一本は日蓮の袈裟掛けの松のところ、もう一本は月影ケ谷の住宅地のところに下りてこれます。

写真は陣鐘山の尾根筋から月影ケ谷を経て極楽寺に行く途中で写したものです。イチョウとモミジの競演はイチョウの散る時期が早く、なかなか見ることはできませんが、思わずシャッターをきりました。

 

 

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