『太平記』には出てきませんが、『私本太平記(五)』(吉川英治歴史時代文庫67)の「稲村ケ崎」のところに七里ヶ浜の田鍋谷の地名が出てきます。極楽寺坂の敵を攻めあぐね、行合川の本陣にいる新田義貞に家来の三木俊連の案が献策されます。
「この附近の田鍋谷から北に入って、長谷山に出て、極楽寺の敵の背後へ突き出でまする」「いい考えだ。が、義貞もこの辺の姥ケ谷、田鍋谷などの八方に兵を入れて間道をさぐらせてみた。しかしいずれも兵馬の通れるような所ではないという」「いや田鍋谷なら越えて行けぬことはないと、三木俊連が申しおります。おゆるしとあれば、三木の一勢が」
行合川は江ノ電七里ガ浜駅の横を流れている川。田鍋谷という地名は七里ガ浜東の住宅のなか、七里ガ浜小学校の近くに「田鍋」という地名がみられますので、三木の一勢は、行合川沿いに北方にある尾根を目指し、現在の鎌倉山神社のあるところから尾根伝いに極楽寺を目指したものと思われます。今でも山道があり、住民にとっては極楽寺に抜けるいい散歩コースになっています。
さて写真は鎌倉山から七里ガ浜東の住宅地に抜ける一方通行路で写したものです。ススキと夕焼けの寒々しい景色が気に入り写しました。この写真の右の尾根筋と住宅地がぶつかるあたりに行合川が流れ、川の上流に田鍋谷があります。洲崎の戦いで赤橋守時を破った新田軍は、右の腰越方面から海岸伝いに七里ヶ浜に入り、行合川に陣をはったと思われます。