goo blog サービス終了のお知らせ 

人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

龍飛崎 --階段国道 339号線--

2023-07-11 19:29:25 | 旅行

階段国道という名前は聞いたことはありましたけどイメージが湧きませんませんでした。龍飛崎の灯台に至る階段を階段国道と言うようです。何故国道なのか頭を働かせましたけど、国道にする理由が分かりません。ひょっとしたら国防上の理由から、有事に閉鎖できる階段道なのかもしれません。なんとも理解に苦しむ場所でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

龍飛崎 --津軽海峡冬景色--

2023-07-11 19:07:27 | 旅行

写真は石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の記念碑。この記念碑は赤いボタンを押すと石川さゆりの歌が流れてきますので、碑の前でエアーカラオケをしている人もいました。なんともカラオケの聖地なんですね。

三木隆作曲、阿久悠作詞、歌うのは石川さゆり。やはり後世に残る名曲です。二番の歌詞は次の通り。

ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと 見知らぬ人が指をさす 息でくもる窓のガラスふいてみたけど はるかにかすみ 見えるだけ さよならあなた 私は帰ります 風の音が胸をゆする 泣けとばかりに ああ津軽海峡・冬景色

なんとも情感あふれるメロディと歌詞。碑の前で歌っていた女性の気持ちがよく分かり、思わず口ずさんでいた自分がいました。あ~あ津軽海峡冬げーーしき。来てよかった場所でした。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青森県 秘境の旅 --龍飛崎を訪ねる--

2023-07-11 14:53:00 | 旅行

青森県周遊 秘境の旅シリーズで次に訪れたのが龍飛崎です。青森県にはこの龍飛崎のある津軽半島と本州最北端の大間崎のある下北半島の二つの半島があります。下北半島は恐山とか大間のマグロで知られていますが、恥ずかしながら大間崎と龍飛崎を殆ど重ねて記憶していました。

さてこの龍飛崎ですが、事前知識としては石川さゆりの「津軽海峡冬景色」と青函トンネルの本州側の起点程度しかありませんでした。また太宰治の『津軽』には、竜飛とは「路の尽きる箇所である。ここの岬は、それこそ、ぎりぎりの本州の北端である。」と表現されていますので、なんとなく憧れみたいなものもあり、一度は訪ねてみたい場所でした。太宰の時代(戦争中)は、青森から三厩までバスで4時間、そこから歩いて3時間で竜飛の部落に着くとあります。今はJR東日本の津軽線(昭和33年に三厩まで開通)で三厩までは行くことができます。この三厩は義経伝説や江戸時代末には吉田松陰も訪れた場所です。狭い所で20km程度の津軽海峡は日本海と太平洋を繋ぐ海峡でもありますので国防上も重要な場所でした。そんなこともあり、吉田松陰もわざわざ長州から来たのでしょう。

今回は東北新幹線で東京から新青森(所要時間は3時間37分)まで来て、そこから観光バスの旅でしたのでさいはての地とは言え、朝9時過ぎに東京駅を出発し、三内丸山遺跡を見学し、15時30分過ぎには龍飛崎灯台に到着しました。世の中便利になったものです。

さて写真は龍飛崎にある灯台の景色。どうも今は現役ではなそうですが、その代わりレーダーがしっかり回っていました。津軽海峡冬景色ではありませんが、今日は天気に恵まれ、遠く北海道の松前町の白神岬、さらに小島(松前小島)も見えました。この龍飛崎の真下を通り、北海道の福島町まで青函トンネルが通じています。よく掘ったものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三内丸山遺跡詳述 --⑤大型堀立柱建物跡--

2023-07-11 08:40:04 | 旅行

前述したガイドブックの解説です。

掘立柱建物跡のうち、柱の直径が1m程度あったと考えられるものが大型掘立柱建物跡です。三内丸山遺跡が注目されるきっかけとなった型掘立柱建物跡の柱穴は最大で直径2.2m、深さ2mと巨大で、直径1mのクリの柱が一部残っていました。 

6つの柱穴からなるこの建物跡は緻密な調査により、その柱が内部にやや傾けて据えられていたこと、土を少しずつ叩きしめて柱を固定していたこと、柱と柱の間隔はどれも4.2mであること、柱穴の底に最大十数トンもの荷重がかかっていたなどがわかりました。 

大型掘立柱建物跡は集落の中心から沖館川寄りに10棟以上みつかっており、同じ方向を向き、場所を少し変えながら一時期に一棟程度建てられていたとみられます。これらの特徴から、大型掘立柱建物跡については、天文台、祭祀施設、物見やぐら、灯台、トーテム・ポールなどさまざまな用途が想定されていますが、いずれにしても大型の高床の建造物であった可能性が高いと考えられます。

現在のものはレプリカですが、国内にはこんなに大きなクリの巨木はなく、ロシアから輸入したものだと伺いました。紀元前3,000年頃だとすれば、世界中に残っている遺跡は全て石造建築物ですが、日本では石造建築物の例はありません。木造建築物は経年劣化により朽ち果ててしまいます。この三内丸山遺跡をみてみますと、1,700年もの間社会生活が維持できたこと、木造建築物ではあるが高い建築技術があったことなどから、そこには相当に高い文明があったことが想像できます。そう考えますと、石造建築物が残っているから高い文明があり、なにもない日本は野蛮な地域だというのは早計かもしれません。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三内丸山遺跡詳述 --④子供の墓--

2023-07-11 08:30:10 | 旅行

同じく子どもの墓の解説と写真です。

子ども遺体は、土器に入れて埋葬しました。棺に使われた土器は、丸い穴があけられたり、口や底が壊されており、煮炊きに使用する土器とは区別されていました。中からはこぶし大の丸い石が出土した例もあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする