人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

青森県秘境の旅 --鶴の舞橋を訪ねる--

2023-07-13 19:02:56 | 旅行

高山稲荷神社の千本鳥居で青森県人の空間の造形美を称讃したばかりですが、この「鶴の舞橋」ほどそれを極めたものはないかもしれません。富士見湖というなんの特徴もない沼を一大観光地にしてしまうのですから、この架橋を考え付いた人はただものではないですね。写真はその鶴の舞橋を写したものですが、出来栄えはほぼゼロ%。その理由は鶴の舞橋の背後に岩木山が生憎の天気で見えていないからです。

実はこの橋、JR東日本の大人の休日俱楽部の宣材写真で一躍有名になりました。ご存じの方も多いかと思いますが吉永小百合さんが鶴の舞橋をバックにして写っているものです。パネルになった写真を紹介したいのですが、叶いませんので、インターネットで検索してください。一度は訪ねてみたいと思う場所です。

この橋は平成6年(1994)7月8日に架けられ約29年経っています。そろそろ寿命ということで、残念ながらこの秋から架け替え工事が始まり、完成するのは4年後です。あと数カ月で見納め、いい時に行くことができました。橋の木材はヒバの木で約3000本使っています。ヒバというの木は別名は「あすなろ」と言い、私は子供頃にヒノキになれずとも一生懸命に頑張る姿を描いた文章を記憶しています。新しい橋もヒバの木を使用するようです。

さて岩木山ですが、標高1650m、津軽平野にどんと腰を据えた独立峰のため、四方どこからも天気さえよければその姿を眺めることができます。津軽人の象徴的存在でお岩木やまとして親しまれていますが、今回の旅行でその姿を見れたのは、まさに津軽を離れるバスの車窓から。ラッキーな出来事でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高山稲荷神社 --千本鳥居の造形美--

2023-07-13 16:52:58 | 旅行

今回ツアー「青森県秘境の旅」で高山稲荷神社を訪れたのは本州最北にある稲荷社を参拝することではありません。このお稲荷さんにある千本鳥居を見ることでした。本殿に参拝してから裏に廻りますと、山に見事な鳥居の列が出現します。京都の伏見稲荷大社の千本鳥居は外国人観光客が好んで訪れることで有名ですが、上から俯瞰して見ることはできません。この高山稲荷神社は丘の斜面を上手く使って鳥居を配置していますので、少し登った丘陵の上から眺める鳥居の列は見事です。

写真は展望台から写したものですが、朱色の躰の龍の姿が実に写真映えします。この旅行で感じたのですが、青森県人の空間を利用した造形美は見事です。この近くにある田んぼアートも然り。適度に俯瞰できる場所があるからでしょうか?想像力が凄いです。都会では考えられませんね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青森県秘境の旅 --高山稲荷神社を訪ねる--

2023-07-13 15:30:49 | 旅行

ツアー二日目の最初の目的地は高山稲荷神社です。新青森駅前からバスに乗り五所川原市に入りますと眼前に広大な田んぼが目に入ります。既に田植えも終わっており、一面緑の絨毯が敷き詰められた光景を見るのは初体験。東海道新幹線の車窓から見る景色とは全く違い、ちょっと感動しました。地図で弘前市、五所川原市に広がる津軽平野をみますと、白神山地を源流とした岩木川が東端の十三湖に流れ、東側は標高500~600mの津軽山地、西側は屏風山と書かれたせいぜい50m程度の丘陵に囲まれた様子が窺えます。屏風山の西側には日本海が広がっています。専門家ではないのですが、コメの生産に適した湿地帯だったのでしょう。青森県の銘柄は「青天の霹靂」と言うようです。そんな屏風山の丘の上に高山稲荷神社はありました。五能線の五所川原駅から車で30分位かかる結構不便な場所でした。お稲荷さんご由緒は次の通り。

当社の御創建の年代は詳らかではないが、鎌倉から室町にかけて此のあたりを統治していた豪族安藤氏(承久の乱後、北条得宗家の所領で、安藤氏は目代として統治)の創建と伝えられる。 江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社の境内社である三王神社御創建の社殿には、山王坊日吉神社を中心に十三宗寺立ち並ぶ一大霊場があり、安藤氏の祈願所として栄えるも1443年頃に南部勢の焼き討ちにより焼失した。・・・。 稲荷神社創建の社伝には、江戸時代の元禄14年(1701)に赤穂藩主浅野内匠頭長矩の江戸城中での切傷事件による藩取り潰しの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大明神の御霊代を寺坂三五郎が奉載し、流浪の果て津軽の弘前城下に寓し、その後鯵ケ沢に移り住み「赤穂屋」と号し醸造業を営み栄える。その子孫がお島に移住するにあたり、この高山の霊地に祀れとのお告げにより遷し祀った、と伝えられる。

以上、ながながと由緒を書きましたが、実際のところはよく分かりません。ご由緒はともかく、クルマで行くにも結構不便な場所ですが、社殿や付属施設は充実し、江戸時代から近郷近在の多くの参拝者で賑わっていた様子が覗われました。米作りの人々にとって大切な信仰の場所だったのでしょう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする