今、司馬遼太郎の街道を行くシリーズ43巻『濃尾参州記』を手元に置いてこのブログを作成しています。作者がこの取材のため鳴海を訪れたのは1995年10月20日。そしてその翌年の2月12日に亡くなってしまいました。たぶんもっと長生きしていれば、この『濃尾参州記』に書きたいことはいっぱいあったと思います。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の天下の三英傑を世に送り出したところですから、少し残念ではありました。ただ私が東海道歩きで久しぶりに鳴海を訪れたのが、この取材旅行から20年経った2015年10月18日と19日。また鳴海についてブログに書き始めたのが命日である2月12日であり、何か特別な思いがしました。
『濃尾参州記』によれば、織田信長は熱田神宮で戦勝祈願をしたのち、鎌倉街道をひた走り古鳴海から鳴海に入り、善照寺砦で今川義元の動静を窺ったとあります。この善照寺砦は小学生のときの通学路にあり、毎朝ここに集まり近くの鳴海小学校まで集団登校していました。そして司馬遼太郎さんが桶狭間の合戦の地、田楽ケ窪を展望するために名古屋市立緑高校を訪れたことが書かれています。ここは緑高校ができる前には鳴海中学校があった場所で、私自身3年間山の上の中学校に通っていました。あの司馬遼太郎さんが見た景色と同じものを3年間見てたのかと思うと、歴史マニアではないのですが何か熱くなります。
写真は10月18日に行われた鳴海の祭りの様子です。生まれ育った場所を離れ40年以上になりますが、何故かこの町に戻ると気持ちが安らぎます。翌19日には宮から鳴海まで歩いたついでにソウルフード「浅野屋のうな丼」を食べて鎌倉に戻りました。
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