人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

ちょっとブレイク ーー シン・ゴジラ ーー

2016-09-19 08:42:38 | 日記

9月18日(日)、読売新聞朝刊の『地球を読む』(御厨貴 青山学院大学特任教授)は「ゴジラにどう立ち向かう」というコラム。今ヒット中の映画 『シン・ゴジラ』を題材に非常時の危機対応の在り方についての話でした。読まれた方もいらっしゃるかと思いますが、近代史のなかで日本を襲った「災後」。関東大震「災後」、東京大空襲戦「災後」、阪神・淡路大震「災後」、東日本大震「災後」、熊本震「災後」など、日本人は築き上げてきたものを一瞬で失う経験を何度もしてきています。『シン・ゴジラ』は(ゴジラ=災害)が起きたとき、その「非常時にどう立ち向かう」かの問いを漫然と暮らす日本人に投げかけているとしています。ゴジラの発するビーム乱射で国の指導者が乗ったヘリが破壊され、総理大臣以下の閣僚が一瞬で殺されてしまうというシーン。非現実的かと言えばそうでもなく、首相官邸屋上にドローンが着陸したのはつい最近の出来事です。映画の最後はゴジラが凍結、フリーズされた状態で終わりますが、『シン・ゴジラ』も御厨先生のコラムも、非常に興味深くみさせていただきました。

写真は強大化したゴジラの最初の上陸場所。由比ヶ浜~材木座海岸の遠景です。1923年に起きた関東大震災の時には、発生した地震と津波で鎌倉市内は壊滅的な被害を受けました。あれから93年。ゴジラの上陸地点が鎌倉とは、考えさせられますね。

さて、もう一つ。欧米人と比較した、日本人の「謙虚さ」「奥ゆかしさ」「集団のなかでの秩序だった行動」など、外国人が不思議に感ずる日本人特有のDNAの原点は何か。それは、日本人の記憶の中に「ゴジラ」がいると誰もが思っているからでしょう。どんなに地位、名誉、財産などがある人も、何もない人も、大災害の前では平等に無力です。ゴジラの通った後やビーム乱射は平等にすべてを破壊しつくします。そして日本人は廃墟の中から何度も復興してきた記憶もDNAとして残っています。「生きていれば、なんとかなる」という考え方。これが大昔から受け継がれた日本人のDNAの原点だと考えます。

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鎌倉を知る ーー 安養院 ーー

2016-09-18 11:21:36 | 日記

大町四ツ角から名越に向った先に安養院があります。このお寺、何度か火災にあってもその都度再興され、開山・開基は誰かといわれても直ぐには答えられません。三つのお寺が関係しているとご理解ください。まずは、もともとこの地にあったお寺は尊観が開いた浄土宗の善導寺。開山尊観の墓と伝わる徳治三(1308)年の年号がある宝篋印塔(国重文)が本堂の裏にあります。この善導寺のあとに北条政子が源頼朝の冥福を祈って笹目に建てた長楽寺が移され、北条政子の法名をとって安養院として再興されました。安養院の山号・院号は祇園山安養院田代寺。さらに安養院は延宝八(1680)年に焼失。その後に源頼朝の家臣田代信綱が建てた比企ケ谷の田代寺の田代観音堂を移して再興され、今の安養院があるわけです。また尊観の宝篋印塔のとなりに北条政子の供養塔といわれる宝篋印塔がのこされています。仏様は善導寺の阿弥陀如来坐像、田代寺の千手観音菩薩と北条政子像などが安置されています。ちなみにこのお寺は坂東三十三観音の第三番札所。この観音様は北条政子の信仰が篤く、良縁観音、昇竜観音と呼ばれているようです。

さてこの安養院は北条政子ゆかりの寺であることは間違いなさそうです。このブログでも北条政子はたびたび登場しますが、頼朝の妻としての顔、大姫・頼家・実朝の母としての顔、北条一族や御家人の結束を促した尼将軍としての顔など多彩であり、興味はつきません。日本史のなかには卑弥呼、斉明天皇、持統天皇、光明子(聖武皇后)など、後世に名を残す女性がいますが、北条政子も間違いなくその一人。そして『吾妻鏡』は頼朝が亡くなる前、数年間の欠落部分があります。何故欠落しているか不明とされていますが、私はそこに北条政子が深くかかわっていた可能性があると考えています。どうでしょうか?

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鎌倉を知る ーー 本覚寺 ーー

2016-09-14 16:57:12 | 日記

鎌倉駅から若宮大路を渡り、大町に抜ける道沿いに本覚寺はあります。このあたりは小町といい、鶴岡八幡宮の東側の「筋違橋」から宝戒寺、本覚寺前を通り、材木座までの道筋が鎌倉時代の小町大路です。この本覚寺は、一乗院日出が開いた日蓮宗のお寺です。有名なのは二代目住職「日朝」で、身延山久遠寺の貫主にまでなった高僧です。それでこの寺は親しみをこめ「日朝さま」と呼ばれ、久遠寺から日蓮上人の骨を分骨し、遠く身延山まで行かなくてもご利益が得られるように「東身延」とも言われています。

さて写真は大町方面から本覚寺を写したもの。左に見えるのは、鎌倉十橋「夷堂橋」欄干で、正面は仁王門。ここでちょっと、勉強したばかりの建築物の話をさせてください。この門は二階建てで屋根が一つ、この形式を「楼門」といいます。鎌倉では鶴岡八幡宮の上宮の門も同じ形式です。屋根が二つあるのは「二重門」、建長寺や光明寺の山門です。本覚寺の門は江戸時代のものですが、もとからあったのではなく三浦半島のどこかのお寺の門を移築したもの。そして一階の柱上で二階をささえている組物が「斗栱(ときょう)」。肘木と大斗・巻斗などの組み合わせでできています。大きな建物になるとこの斗栱が幾重にも重なり、上の建物の重さを分散させることで、下の柱にかかる負担を少なくするわけです。

さらに古くからこれら木造建築物は使いまわしがされます。京都御所の紫宸殿は建て替えられ仁和寺の金堂になっていますし、円覚寺の舎利殿は太平寺から、建長寺の仏殿は芝増上寺から移築されたものです。一切釘を使ってないので、屋根から順番にはずして、再度もとの姿に戻されます。瓦一枚に至るまでどこの部材か記しがあるので可能なのですが、重機の無かった時代では気の遠くなるような作業だったと思います。当然に材木は貴重品だったのでそうせざるを得なかったのでしょう。

今の日本は50年にも満たないホテルやオフィスビルが建て替えられています。壊し方の工法が話題になるような時代ですが、なんとも無駄が多い世の中だとつくづく思われてなりません。

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きょうの旅 ーー 妙心寺 三門 ーー

2016-09-11 13:57:54 | 日記

先日、鎌倉の寺院建築の話を聞く機会がありました。禅宗様式の建築で七堂伽藍が残されているお寺は少なく、鎌倉では建長寺、京都では妙心寺、大徳寺など日本でも数えるぐらいしかないとのことでした。鎌倉の建長寺は地元であり何時でもいけますが、京都の妙心寺の名前が上がった時は思わずニンマリ。実は昨年まで右京区谷口梅津間町に住んでいて、北門から南門までは通勤経路。妙心寺の境内は地元民にとって当たり前の生活空間でした。

写真は妙心寺の三門ですが、朱色に塗られています。恥ずかしい話ではありますが、はじめて見た時は、円覚寺の三門などの枯れた姿に見慣れていたせいか、この三門に文化財としての価値があるのかと疑問に思った次第です。三門は創建当時から朱色に塗られていたとのこと。後で知りましたが、円覚寺の三門も朱に塗られていて、今もよく見れば建物の一部に朱に塗られた痕跡があるようです。魔よけと建物の保護のためらしいですね。ただ円覚寺の三門が朱色だったら周りの景色に溶け込むかどうか、微妙です。

さてこの妙心寺ですが、清水寺や金閣・銀閣寺と違って訪れる観光客も多くなく、ゆっくりと境内を散策できます。お奨めは法堂の天井にある雲龍図の拝観。この狩野探幽作の天井画は見事です。禅僧はこの龍の下で坐禅をするのですが、堂内のどの場所で坐禅を組んでも龍の目が修行僧を睨み付けています。大きさといい、筆遣いの力強さといい、私が見た中では最高の雲龍図だと思います。京都に行く機会があれば一度訪ねてみてください。

妙心寺には京都駅から嵐山に行くJR嵯峨野線に乗り、花園駅で下車。花園駅からは5分くらいで南門に着きます。法堂に入るには拝観料がいりますが、境内は通り抜けできますので、北門から10分位歩いて妙心寺の塔頭である龍安寺を訪れ、石庭を見学。龍安寺からは仁和寺経由嵐山に行くのもよし、等持院から金閣寺に行くのもよいでしょう。ちょっと小腹の空いた方は、嵐電龍安寺駅近くにある『笑福亭』で「たぬきうどん」を召し上がってください。本くずを使ったとろみのある生姜のきいた汁にきざんだあげがのっています。天かすがのったうどんではありません。

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鎌倉を知る ーー 正岡子規と源実朝 ーー

2016-09-09 09:08:35 | 日記

鎌倉文学館を訪ねる機会があり、玄関までの通路にある鎌倉ゆかりの人物の歌碑を見ていたら、次の正岡子規の短歌がありました。

  * 人丸の後の歌よみは誰かあらん征夷大将軍みなもとの実朝

この短歌は、明治32年に詠まれた正岡子規の「金槐和歌集を読む」5首のなかの一つです。加えそのほかの二首を紹介します。

  * 鎌倉のいくさの君も惜しけれど金槐集の歌の主あはれ

  * 路に泣くみなし子を見て君は詠めり親もなき子の母を尋ぬると

一方鎌倉文学館にある源実朝の歌は次の一首です。

  * 大海の磯もとどろによする波わけてくだけてさけて散るかも

  子規の歌になった実朝の歌は次の一首。

  * いとほしや見るに涙もとどまらず親のなき子の母を尋ぬる

ご存じのように源実朝は1219年に甥の公暁によって殺害された三代将軍。『吾妻鏡』によれば彼の政治的手腕は評価されませんでしたが、歌の才能は高く、後鳥羽上皇は実朝暗殺の知らせを聞き、その才能を惜しんだと言われています。源実朝の手腕について、その評価は分かれるところですが、私は個人的には歌の才能ばかりでなく、政治的手腕も十分にあった将軍でなかったかと考えています。感性豊かな正岡子規の実朝を詠んだ歌をみて 「我が意を得たり」と秘かに喜んでいます。

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