木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

日本人の個人主義

2011年01月24日 | 日常雑感
少し前になるが1月12日の日経新聞夕刊に映画監督・園子温氏のインタビュー記事が載っていた。
大変、興味深い内容だったので引用してみる。

こんなに価値観が錯綜する社会で、どこにも属さず個として生きるという欧州的な考えは無理だ。
 すべての価値観があやふやな日本という国の中で、流されるだけ流されて、巨大な流行とかブームとか、団体、思想、どこかに依存しないと息ができない。そういう意味で日本の家族は常に危機にさらされている。

ぼくは日本の家族は最小単位の宗教だと思う。父親は教祖。ただその戒律は緩いので、テレビから流れてくる情報と違うことに子供たちはすぐに気づいてしまう。父親に対する幻想も消えて、この宗教はかなりの短さで終わる。
 そこから子供たちはどう飛び出し、解放されていくかというと、実はそんなに個というものを確立できる社会ではないので、もう一つの新たなる宗教を探しているだけなのだ。それがオウムであったり、何かの会社であったり、ある組織の中で生きる自分を探す。それが良い悪いではなく、約束事やもう一つの輪の中に入って安息せざるを得ない。

今の日本社会は「癒やし」にあふれていて、逆にそれが病気じゃないかと思う。「癒やし」とは麻薬のようなもので、常用しないと疲れがとれない。毎日飲まざるを得ないドラッグに依存して生きているのか。

バブルが終わって、21世紀になって、日本では社会情勢の流れの中にしか個人がないということに気づいた。自分がこう思うことの90%は社会の中で思わされている。
(聞き手は日経新聞・編集委員・古賀茂樹氏)


引用していたらインタビューのほとんどを書き抜いてしまった。
日本人は元来、木と草で出来た家に住み、障子と襖で区切った部屋に住んでいた民族である。そこで育つ個人の観点は石の家に住む欧米流のものとは大きく異なる。
歴史上、生活が豊かになって、大きな家に住めるようになるが、大広間を作るのが日本的で、個々の部屋を多くしていくのが欧米流だ。
それが近年になって、大きく変化してきている。日本も欧米のように個々の部屋が多くなるに従い、家族で一緒に過ごす時間が少なくなっていく。
個々で生きるという経験が少ないため、人と距離を置きたいが、離れ過ぎると不安になるという状態が続く。
「ハリネズミのジレンマ」とは、他者と近づきたいが、近づきすぎると、たがいのハリが当たって痛い。だから、近づこうにも近づけないという状態だが、いまの私たちも不器用で、他人とどのくらいまで近づいたらいいのかが、よく分からない。

人は誰でも、一人になりたくなることもある。けれども、日本の「個の文化」はまだ成熟していないから、あからさまに自己を主張しすぎるのは損だ。
ある人がアメリカに行ったとき、横断歩道の赤信号を無視して歩いて行く人がいた。それをみて、「いいのか」と友人のアメリカ人に聞くと「At own his risk(それは彼の危険=責任だ)」と答えたそうだ。
交通事故があったときも、日本流の双方が悪い的な考えではなく、交通ルールを無視した歩行者がかなり歩が悪いのだろう。
欧米流の個人主義は筋金が入っている。日本には日本なりの個人主義があってしかるべきなのだ。
そろそろ、日本の個人主義のスタンダードが出来上がってもいい頃のような気がする。
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