木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

小林教照氏のはなし

2011年01月29日 | 日常雑感
今日の中日新聞の文化欄に武蔵野学院院長の田中教照氏の書いた「親鸞のいいたかったこと(下)~愚者に徹して生きよ」という記事が掲載されている(以下、青文字は引用文)。

親鸞もいう。「愚者になれ」と。みずからも「愚禿(ぐとく)」と称した。本物の愚者になることは、本物の賢者になることよりもむずかしい。だれも自己愛がある以上、自己肯定に傾く。自己否定はむずかしい。だから賢者になりたがる。しかし、煩悩が邪魔をするから、偽物の賢者にしかなれない。それでも、なお、賢者をめざす。愚者の自分が許せないから。 

現代は、小利口な人間が増えている。ビジネスだけでなく、個人的な買い物や殖財に、少しでも得をしようと願う。
誰もが利益を追求するなかで、敢えて自己を捨てて、他人のために損な生き方を選ぶ人もいる。
テレビなどでそのような人が放映されると私たちは「偉いなあ」と思うが、同時に「自分にはできない」とも思う。
聖なる人は、己を捨てた人の中にいる、とは日本メンタルヘルス協会の衛藤氏の言葉であるが、自己犠牲精神というのは、絶滅危惧種となっているのも現実だ。

自分が愚者であるという自覚から相手をもゆるすことができるのである。
なぜなら、自分自身がすでに自己の愚かしさをゆるして生きているのだから。


耳の痛い言葉である。現代人の多くが、他人を批判し陥れることによって自己の正当性を確立しようとする。
「我も正しい、彼も正しい」という生き方こそ正しいようにも思えるが、さらに進んで自己を否定して生きる。
阿弥陀仏へ絶対依存することによって初めて可能となる行為だ。

社会が救いを失って窮屈になっている。出口のなさにストレスをためこみ、それが爆発するときは自己崩壊、人生放棄、というのではやりきれない。まず、仏に支えられ、見護られ、お陰でなんとか生きられる、生きられなくても往生していくところは決まっている、という安心が今求められている、という気が私にはしてならないのだが。

宗教であれ、人物であれ、信念であれ、趣味であれ、信じるものがある人は強い。
自己否定とまではいかないが、思い出した歌がある。
中島みゆきの「Nodody Is Right」という歌である。

もしもわたしが全て正しくて とても正しくて 周りを見れば
世にある限り全てのものは 私以外は間違いばかり 
もしもあなたが全て正しくて とても正しくて 周りを見れば
世にある限り全てのものは あなた以外は間違いばかり 

つらいだろうね その一日は
嫌いな人しか出会えない
寒いだろうね その一生は
軽蔑だけしか いだけない


愚者に生きるも一生。賢者に生きるも一生。
どちらが正しいかなんて分からない。
ただ自分は自分の生き方を生きるだけ。
人を批判している暇なんてない。

Nodody Is Right

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