木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

サムライ 真剣勝負②

2006年06月15日 | 武士道の話
前回の池波正太郎の曾祖母と全く同じことを言った人がいる。
渡辺誠氏は、著書の中で箱根の古老が伝聞した話を紹介している。
幕末。
伊庭の小天狗こと、心形刀流の伊庭八郎と小田原藩鏡信一刀流の高橋藤太郎の一騎打ち。

それは映画などで見るようなものとは、なかなかわけが違ったといいます。旧道の幅が二間(3.6m)から二間半あるその端と端に立って、こう向かい合って、気合ばかりでちっとも接近しない。汗びっしょりだ。それからチャリンと音がしたかと思ったら、伊庭八郎の手首が切り落とされていた。高橋のほうは首筋を斬られて即死だったそうです

二人とも当時、かなりの遣い手であったということであるが、その二人をもってしても、真剣勝負は、このようなものだった。
また、渡辺氏は、井伊直弼を襲撃した水戸浪士の蓮田市五郎の「憂国筆記」も引用している。

  刀を抜きてからは間合いも確かに知らず、眼はほのか暗くこころは夢中なり、試合稽古とは又一段格別なり。
 こう記しています。抜刀するや眼前が暗くなり夢でも見ているような心持ちになったかれは、味方の増田金八という者と知らずに戦っていたといいますが、この急撃ではいわゆる同士討で疵を負う者が甚だ多かったということです


いくら動転しているとはいえ、味方同士で戦うまで、我を失うとは、真剣を持っての斬り合いは、想像を絶するものだったに違いない。
池波正太郎の話も渡辺氏の話も時代が幕末近くになってからのもので、武士のDNAも戦国時代とは大きく変化しているのは事実であろう。
集団闘争と1対1では、精神状態も全然違うのだろう。
飛び道具とは違い、相手の肉体に触れ得れば相手を即死させる殺傷能力を持ちながら、相手の息を感じるほどに接近し、刀と刀を接触させて戦う日本刀という武器の独自性がこれほどまでの緊張感を生むのかも知れない。

江戸時代ともなると真剣勝負の当事者となった武士というのはごく少数だったに違いない。
幕末百話は、辻斬りが趣味だった武士の話で始まっているが、実際に人を斬ったことのある武士は少なく、切捨て御免などということは、長い江戸時代でもほとんど実例がなかったそうである。

田沼意次が没落する原因となった実子意知が佐野善左衛門に城内で殺害されたのは、天明四年(1784年)。
江戸中期のことである。
意知は、同僚3人の後から、桔梗の間に入ったが、そこで佐野善左衛門に襲撃されている。
驚いた同僚は腰も抜けんばかりにほうほうの体で、その場を逃げ出した。
大勢の者が桔梗の間に駆けつけたが、みな呆然と立ち尽くすばかりであった。
善左衛門は這って逃げようとする意知を更に二度ほど突き刺した。
やがて、大目付の松平対馬守忠郷が駆けつけ、善左衛門を羽交い絞めにした。
対馬守は70歳の高齢であった。
この件により、善左衛門はもちろん切腹、対馬守は二百石の加増、その場に居合わせながら止められなかったものは、多くが厳しく処罰されている。
武士といっても、刃物を持った者は怖かった。
この事件を見る限り、武士もさほど現代人の感覚と変わらないような気がする。

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田沼の改革   関根徳男 郁朋社

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