木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

手裏剣

2006年06月12日 | 江戸の武器
先日、「RED SHADOW 赤影」というDVDを借りて来た。
「仮面の忍者 赤影」のリメイク版である。
30分もしないうちに、観るのをやめてしまった。
時代劇コメディという内容も内容だが、あまりの時代考証のめちゃくちゃさに、これでは忍者も浮かばれないだろう、と思ったのである。
とはいえ、忍者に確たる時代考証があるわけではない。
陰の者の使う忍術は当然秘伝であり、詳細については残されていない部分がほとんどだ。
だが、手裏剣については、後世に術が伝え残されている。
手裏剣は、武士にも奨励されていた時期があったからだ。
しかし、手裏剣と武士はイメージが結びつかない。

徳川幕府では、攻撃力の強い手裏剣を邪道と位置づけ疎んじ、一般には禁じていた。
それが江戸も末期になり、政治状況も混沌としてきた中、手裏剣に注目する藩も現れてきた。
代表が御三家のひとつ水戸藩で、九代藩主水戸斉昭が息女を仙台藩主に嫁がせたことから、東北地方に伝承されていた願立流手裏剣術が水戸藩内に知られることとなる。
その系統から根岸流をうち立てた根岸松齢という人物が出現する。
それ以前にも天真白井流剣術の流祖、白井亨義謙による白井流があり、その他にも明府真影流が伝えられている。
話は少しそれるが、最後の徳川家将軍となった慶喜は、手裏剣の名手として名高く、慶喜が実際に使用されたと言われる手裏剣も現存している。

一般に手裏剣というと、星形をした車剣(四方手裏剣)を思い浮かべる人が多いと思うが、実際は棒手裏剣と呼ばれる棒型のものがよく使われた。
まず、車剣であるが、投げると、うなりを上げて飛ぶので、敵を心理的に威嚇する効果が大きかった。
刃の形状にかえしを入れることにより、殺傷力をアップすることもできた。
大きさは15cm、重さ200gくらいのものが多く、実際に見てみると、意外なほど大きく感じるし、実際の重量もかなり重い。
この形状は空気抵抗も大きく、軽すぎると目標への的中率が落ちるためである。

車剣には、欠点もある。
一枚の鋼にたくさんの刃を付けるという加工は高度な技術で量産できなかったし、コスト面でも高くついた。
また、刃がたくさんついているため、投げるときに自分の手を切ってしまう可能性があった。重いので携帯に不向きでもある。
機動力が命の忍者にとって、携帯に向かない武器は致命的だ。
だから、忍者は少量の車剣と、携帯に便利な棒手裏剣を併用していたと思われる。

棒手裏剣は、長さが12~18cm、重さは60gくらいのものが多かった。
空気抵抗の少ない棒手裏剣は、車剣よりずっと軽量であったので、携帯に適した。
(ちなみにダーツの矢は25gくらいであるから、それよりはずっと重い)
丸い鉛筆状のものが多かったが、四角や三角のものもあった。
投げ型は、車剣も棒手裏剣も基本的には、野球で言うオーバーハンド。
正面に振りかぶって、投げおろす格好だ。
棒手裏剣は、連続して投げることも比較的容易で、流派によってはフェイントをかけながら投げる型もあった。
二本、三本の手裏剣を同時に投げることもできた。
熟練者は複数の手裏剣を同じ所に刺すこともできたし、持ち方を変え複数の敵を一度に倒すこともできた。
手裏剣は、元来、鎧兜に身を包んだ武者の唯一の弱点である目を狙うことを主眼としたのであるが、状況いかんでは、遠隔地の敵に対し、弓矢以上に効力を発揮したという。


剣技・剣術二 牧秀彦 新紀元社
手裏剣普及協会公式サイト

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